同朋会運動50周年
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宗門各位に告ぐ 宮谷 法含
いまの宗門は、五年後に宗祖聖人の七百回御遠忌を迎えようとしている。しかも、御遠忌を迎えて、われらは一体何を為すべきかの一途が明らかではない。宗門全体が足なみをそろえて進むべき態勢が整うているとはおもわれない。このままでは御遠忌が却って聖人の御恩徳を汚しはせぬかとの声も聞き胸をも打たれる次第である。この憂(うれ)うべき宗門の混迷は、どこに原因するのか。宗門が仏道を求める真剣さを失い、如来の教法を自他に明らかにする本務に、あまりにも怠慢であるからではないか。今日宗門はながい間の仏教的因習によって、その形態を保っているにすぎない現状である。寺院には青年の参詣は少なく、従って青壮年との溝は日に日に深められてきているではないか。厳しく思想が対立し、政治的経済的な不安のうずまく実際社会に、教化者は、決然として真宗の教法を伝道する仏法者としての自信を喪失しているではないか。寺院経済は逼迫(ひっぱく)し、あやしげな新興宗教は、門信徒の中に容赦なくその手をのばしてきている。教田の荒廃してゆく様は、まさに一目瞭然であるが、われらは果してこの実情を、本当に憂慮し、反省しているであろうか。まだ、何とかなるという安易をむさぼる惰性に腰をかけているのではないか。
大谷派に一万の寺院、百万の門信徒があるといいながら、しかも真の仏法者を見つけ出すことに困難を覚える宗門になってきているのである。極言(きょくげん)するならば、われわれ宗門人は、七百年間、宗祖聖人の遺徳の上に安逸(あんいつ)をむさぼって来たのである。いまや御遠忌を迎えんとしてわれら宗門人は、全身を挙げて深い懺悔をもたねばならない。単に御遠忌のにぎにぎしさを夢みることによって、この現状を糊塗(こと)するようなことがあるならば、宗門は疑いもなく、歴史から冷ややかに嘲笑(ちょうしょう)を浴びるであろう。
宗門は今や厳粛な懺悔に基づく自己批判から再出発すべき関頭(かんとう)にきている。懺悔の基礎となるものは仏道を求めてやまぬ菩提心である。混迷に沈む宗門現下の実情を打破し、生々溌溂(せいせいはつらつ)たる真宗教団の形成を可能にするものは、この懺悔と求道の実践よりほかにない。
昭和三十一年四月三日