教化本部一泊研修会報告
宗祖の御遠忌法要が勤修される翌年の二〇一二年に真宗同朋会運動五十年を迎えます。この年は、我々宗門人にとって御遠忌法要とともに非常に重要な節目の年であります。
教化本部では、この年を形だけで素通りするのではなく、改めて真宗同朋会運動の源流に学び、運動の歴史が提起する課題を明確にしていくことの大切さを協議してまいりました。
このことを学ぶために、このたび本山より全寺院に発送された『大谷派なる宗教的精神―真宗同朋会運動の源流―』の著者である水島見一師(大谷大学准教授)を講師に迎えて、昨年12月25日から26日の一泊二日の日程で「教化本部一泊研修会」を開催しました。
また、真宗同朋会運動が提起した課題を学ぶことは、宗祖の御遠忌をお迎えする基本視座を見定めていくことと別ではありません。宗祖の七百回御遠忌勤修の一ヵ月前に開催された同朋壮年全国大会で湧き起ってきたうねりが「同朋会運動を発足せずにはおられぬはじめを開くような意味」を開いていったものでありました。したがって、御遠忌をお迎えすることと、真宗同朋会運動の発足は、願いを同じくした一つの歩みでありました。
このことから、今回の研修会には教区の御遠忌運動方針の策定を担われている教区御遠忌お待ち受け委員会の御遠忌テーマ小委員会の委員、教化担当者学習会のスタッフにもご参加いただきました。
また、研修会は、水島師の講義にじっくり身を据えて聞いていく時間を持ったことは勿論ですが、それ以上に各参加者が講義を聞いて、あるいは『大谷派なる宗教的精神』をとおして質問していくことを最重要点において、質問時間は両日併せて3時間以上持つ日程を組みました。
初日の講義において、水島師は「一体、教学とは何なのかわからなくなった」という告白から始まりました。その中で師が出会われたのは、安田理深師の「真宗は食べてみるもの」という言葉でありました。現在の真宗はアクセサリーのように身を飾っていくものばかりが横行しているが、真宗の学びとは本来自我の皮を剥いでいくようなもの。自らが体験してうなずき、自分の内面に呼応したものでなければならないのではないかと語られた。
また、我々は説明責任を果たすことが誠実な対応と考えているが、高光大船師が「説明は説迷である」と述べられたことを取り上げられた。つまり、説明は迷いでしかない。真宗は説明するものではなく、生きるものではないのかと。高光師は、真宗同朋会運動を提唱した訓覇信雄師をはじめ、安田理深師や松原祐善師など多くの人々に深い影響を与えた人であります。
これらの提起が、二日間の講義を貫くものでありました。それは、自らが真宗に関わる姿勢を問いただす提起でもあります。
講義は、これを「実験主義」の名を掲げて実践されたのが清沢満之先生であると展開されていきます。若き日の清沢先生は、教団改革運動を展開されました。この運動によって現在にも継承されていく議会制度も生まれています。後世の視点からは民主化運動として高く評価されるべきものであります。ところが、清沢先生はこれを失敗と受け止め、「これからは宗教的信念の確立に勤しもう」と述懐され取り組まれたのが浩々洞であります。ここに水島師は真宗同朋会運動の原点を見定めておられます。
清沢門下からは、加賀の三羽烏と言われた暁烏敏・高光大船・藤原鉄乗をはじめとする「生活派」。そして、曽我量深・金子大榮、安田理深・松原祐善の系譜を持つ「教学派」が生まれたと位置付けられました。この先達に共通するのは、清沢満之先生の流れを汲んだ「実験主義」を実践されたことであり、すべて異安心と言われたことにあります。
また、清沢門下は、学びの場として浩々洞−真宗大学−大谷大学−興法学園を生み出し、これが後に鸞音舎・相応学舎等を生み出していく。そして、戦争を経て真人社が誕生しました。真宗同朋会運動は正に在野の運動であり、それを宗門の施策にせざるを得ないような危機感から生まれました。
この流れの中に訓覇信雄・仲野良俊・柘植闡英・蓬茨祖運といった真宗同朋会運動の礎を築き、実践されていった方々は生まれています。これらの先達に共通するのは、すべて曽我量深・高光大船の両師に出遇って、自身の真宗に向き合う姿勢が問われたことにあると、水島師は押さえられました。
我々の日常は知性(理性)による領解を求めて止みませんが、そこからは報恩の念は生まれてきません。曽我量深先生の言葉に頷いていかれたのは、自己の霊性(宗教心)である。そして、そこからどこまでも愚に帰える。これが機の深信であり、真宗同朋会運動とは機の深信の実践に尽きるとの水島師の指摘は、「信を獲る」ということを等閑にして真宗を語ろうとする我々の姿勢を厳しく問いただすものとなりました。
講義を受けた質疑応答では、機の深信をはじめ、真宗の社会性の問題にまで及び、さまざまな思いが講師に投げかけられました。
また、二日間の講義・質疑応答をとおして改めて参加者に刻み込まれたのは、さまざまな研修会が実施される中で「信を獲る」という気概を持つことなく、研修会を運営しようとしていたのではないかということであります。
さまざまな「人」を生み出してきた真宗同朋会運動の歴史が突きつける課題は、真宗同朋会運動をどうしていくのかということではなく、一人ひとりの「獲信」にある。
最終日の質疑において、参加者の一人が、真宗同朋会運動が提起されていった源流、そして、真宗同朋会運動に結実する先達の歩みとその内実を学んだ我々に求められてくるのは、その課題を継承する新しい信仰運動の歩みを生み出していくことにあるのではないかと述べられました。
この歩みを自らが始めていくこと、そこに私たちの課題があるのではないか。真宗同朋会運動五十年を迎える基本視座を見定めていく端緒が開かれた研修会となりました。
水島師の『大谷派なる宗教的精神』は、真宗同朋会運動とは何かを尋ねるにあたって、大切な提起がなされています。全寺院に送付されておりますので、是非お読みください。
(講義内容は趣意)
教化本部一泊研修会