今月の法語 「無慙無愧のこの身」
先日、ある会議の後の懇親会でのこと、最近新聞上をにぎわせている防衛省の問題が話題にのぼってきました。インド洋上での給油量の報告が適切になされていなかった事件について、「あれは文民統制の原則の崩壊だ!また戦前みたいになるかも知らんぞ。」と厳しく指摘する方がいて、彼がとうとうと語るような場になっていました。そんな時、だんだんと沈うつな雰囲気になりがちですが、そんな中、私は「うーん一理あるしな。まあ聞いとこうか。」と思いながら聞いていました。
ところがその時、ポツリと年長の方が「そんなこと俺らにもあるんちゃうんか?自分が遅くまで飲んだり、お金遣い過ぎてしまった時、ちゃんとカミさんに報告しとるか?しとらんやろ。おんなじことや。そこに痛みを感じれるかどうかが問題じゃないか。親鸞聖人はそういうことを言っとるんちゃうか?みんな糾弾ばかりして、収まりどころがなくなっとるやろ。」とおっしゃられました。「ああそうか!私もだ。すっかり自分が立っているところを見失っておった。」と気づかされました。
親鸞聖人は「無慙無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」(聖典P509)と述べておられます。まったく私も「無慙無愧のこの身」でありました。「無慙無愧」ということばは「慙は内に自ら羞恥す。愧は発露して人に向かう。慙は人に羞ず。愧は天に羞ず。これを慙愧と名づく。無慙愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす。慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。」(聖典P257)とありますように、自らの心を振り返ることなく他者と関わっていくことをさします。その有様を「畜生」と呼ぶわけです。「畜生」とは人間らしい心を失って弱肉強食の世界に身を落とすことを指しますが、私自身知らず知らずのうちに「畜生」の世界に身を落としていました。先ほどの自衛隊の話題の時でも、自分の論理が正しいか間違っているかで語り合っていたなぁと、まったく「自分」を抜け落として語り合っていたなと気付かされました。
「弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう」とありますように、「南無阿弥陀仏、おまえはおまえ自身に気づかされておるか?」という浄土からの問い(回向)を頂いたとき、はじめて「私自身愚かな身でありました。自分を棚に上げて語り合っていました。」と気付かせていただくことができます。この自らの根性を気付かせてもらうあゆみ(慙)。そして自らの根性に気付かせてもらいながら他者と関わるあゆみ。(愧)この二つのあゆみをさせていただくことが「慙愧」のあゆみであります。このような「無慙無愧」の私に「慙愧」のあゆみを開かせて下さることが、御名(名号、南無阿弥陀仏)の功徳と言えましょう。
親鸞聖人の御遠忌が間近に迫って来ています。「功徳は十方にみちたまう」という言葉通り、浄土からの「南無阿弥陀仏」の問いかけが、いろんな境遇、いろいろな人の上世界中並列同時にはたらいて、十方すなわち各所でいろいろな功徳(慙愧のあゆみ)が生まれていくことが、何より親鸞聖人が慶ばれることではないでしょうか。