同朋会運動50周年
元氏義照氏に聞く 「教区真宗同朋会運動五十年の歩み」
宗祖の御遠忌法要とともに、真宗同朋会運動五十年が迫っています。御遠忌と不即不離の関係で始まった真宗同朋会運動が、教区でどのように展開していったのか。その歩みを元氏義照氏(第19組満照寺前住職)に尋ねました。(元氏義照先生は、さる平成20年5月9日に御命終されました。)
聞き手:黒萩昌(教化本部長)
■宗門白書の広がり
――私たちは「同朋会運動」という言葉の中をずっと生きてきたのですが、果たして同朋会運動が教区にどういう影響を与えたのかということをお聞かせいただきたい。
第一点目は、「宗門白書」です。私たち教化本部は「宗門白書」を大事にしています。五十年前の文章ですけれども、非常に新鮮で刺激的な文章です。この白書が発表された当時(一九五六年・昭和31年)、教区ではどのように受け止められたのでしょうか。もしかしたら、ここまで届いていなかったのではないかという気持ちもあるのですね。
元氏 文章は『真宗』に掲載されたので、住職はみんな知っていたと思いますよ。ただ、白書に述べられたような危機感はなかったのでないかな。白書の根底は、やっぱり本山の経済的な危機でしたよ。一九五〇年(昭和24)に蓮如上人の御遠忌が勤まりましたが、借金をして行ったものですから、その後、ものすごく財政が逼迫したのです。戦争に負けた後だからご門徒は経済的には逼迫しているでしょう。私たちもそうです。だから、暁烏内局や宮谷内局は、その危機をどうやって乗り越えるのかということがあったと思うのですね。
昔、大谷派は経済に恵まれていましたからね。京都市が中学を運営できなくなった時には、宗門で運営したこともありました。それほど豊かだったのです。それがそういう危機に陥りましたからね。まあ今みたいに豊かな時代じゃないから、逼迫感があったと思うね。
――それは先生がよくおっしゃる「お金がないほうがいい」ということでしょうか。
元氏 そうです。そのほうが真剣になるという気がしますね。
――その意味では「宗門白書」は、地方に大きな影響を与えたのではないということでしょうか。
元氏 経済的な危機はありましたが、それでどうするのだという問題はありましたね。ただ、白書の思いは今も昔も変わらないと思うのですよ。だからこそ、危機感というのは大事なんだと思います。
■団体参拝への熱
――御遠忌を三年後に控えていますが、もう一つ教区も寺院も御遠忌に意識が行かないと感じています。しかし、当時はもっともっと今とは違ったかたちで御開山や本山に対する熱い思いがあったのですよね。
元氏 ありました。御遠忌の前は、お年寄りは参ってくれるということは伝わっていました。今でも覚えているけどね、一九四九年(昭和23)に本山の報恩講に参った時に、『御伝鈔』の一段が終わるごとに、お念仏が涌き上がるんだよ。ナンマンダブツって。今はもうそのお念仏のすごさというのはないと思う。あの広い御影堂がお念仏で涌き上がる。その時にお年寄りは大丈夫だと思いました。
でも、若い人はどうするのだという問題はあったよね。それで、御遠忌の前々年に真宗壮年部が作られた。初代の部長は教研に行っていた両瀬正男さんです。壮年部は御遠忌後の同朋会運動で吸収されちゃったのですよ。
――北海道から御遠忌に上山するということは、今以上に大変なことですよね。臨時列車が出たと聞いていますが、そういうことは今の私たちには想像がつかないですね。北海道から概ね何ヵ寺ぐらい行かれたのでしょうか。
元氏 半分以上は行っているね。
――その時の宿泊は詰め所ですか。
元氏 旅館でした。それぞれ分かれて泊まりました。19組は、15組と16組と団参を組んだのです。それで一団体。組織としては、各組の組長さんが委員長、副委員長になりました。それから、事務局がありました。
道中では、列車の中で朝晩お勤めするのですよ。だから、それぞれ班長さんを付けてね、班長さんの指示でやることになっていた。そして、ただ行くのではなくて、京都に行くまで布教してもらうんだ。教えを聞く。昔は相続講の布教使さんがいるでしょう。あの人たちが分けられてね、私たちのところは13組の大澤秀了さんでした。
――車中は何泊ぐらいですか。
元氏 二泊でした。北海道から出て連絡船の中で一泊。それから東京に着いて、大きなホテルで宿泊はしなかったけれども、全員降ろして休憩しました。それから京都へ。京都まで途中で一泊。車中泊は2泊になりましたね。
――行かれる方は、これが最初で最後の本山参りという気持ちでしょうね。
元氏 それはありましたね。本山に参ったことのない人がたくさんいるんだから。しかも御開山のご法事だから、これが最後という思いを持った人はたくさんいました。
――その団参の準備期間は一年ぐらいあったのですか。
元氏 二年ぐらい前ですね。だから、この時期に団参の事務をやる人が決まっていてもおかしくないですね。団参の事務は山本良超さんがやった。山本さんが教務所に詰めてね、団参の総指揮官だ。
――自坊を抱えながらですか。
元氏 そうです。そういう仕事を全部してもらった。
――御遠忌に対する熱いものを呼び起こすには、自分を投げ打って、そこのお世話にかかりきるという人が必要なのかもしれないですね。
元氏 そうだね。山本さんは団参が始まったとたんに平安法衣店の二階を借りて、北海道団参の本部にした。そこに法要が始まって終わるまで山本さん常駐だ。それぐらいやらないと、まとまらなかったですよ。団参の一団体は八百人だからね。だから、山本さんは、団体をまとめるのに中隊長、小隊長、班長という具合にいうことで決めてきたからね。
――その人たちはみんな現場を抱えたご住職たちでしょうか。
元氏 みんな住職。団体のお寺から、あなたは中隊長をやってください、あなたは小隊長をやってください、あなたは班長をやってくださいと。やっと物が回り出した時代ですからね、山本さんも苦労したと思うよ。一年間びっちり教務所に入ってその仕事ばかりしたんだからね。
――なにかそういうお話を伺っていると、今、私たちに一番欠けているのは、現場を投げ打ってでも御遠忌に向けて教区のお世話をみんながするということが一つ欠けているかもしれませんね。
元氏 実際の団参では、旅行会社の添乗員も一人乗ったのですよ。だけど、お寺さんってわがままなんだよね。部屋割りでもいろいろ言ってさ、添乗員の言うことを全然聞かないのよ。だから、統一が取れないのさ。これじゃあどうしようもないだろうということになってね。みんな集めて、俺が全部仕切るから、俺の言うことを聞いてくれと。それで、列車割りから、ホテル割りから、全部私がやって、それを各班長さんに渡した。それから文句は一つも言わないの。仲間というのは不思議なもので、それで最後まで行きました。
――そういう意味では、団参の全体像が示された後で、教区が自分たちのこととしてみんなが動くということがないといけないかもしれませんね。御遠忌の団参がはっきりした時が、きっと勝負なんでしょうね。
元氏 その時が勝負だと思うよ。
■青壮年の動き
――同朋会運動には三つの柱がありました。本廟奉仕と特別伝道と特別推進員教習。北海道ではこれを受け入れて、特伝が開かれ、上山も行われたのでしょうか。
元氏 特伝は初めから引き受けたね。
――それは大きなことだったですか。
元氏 大きいことだったね。それが北海道に同朋会運動が根付いた基だと思うよ。本廟奉仕は当時、本山奉仕でした。今、同朋会館は空きが出てきていると聞いていますが、当時はいつもびっしりでした。待たなければ、入れなかったからね。それと、特伝はやはり効いたね。
――特伝のターゲットは青壮年ですか、壮年層ですか。
元氏 壮年層です。壮年層で寺に参らん人というターゲットを作った。
――私たちが今、教化という面で問題にしているのは壮年です。その世代への教化というものがスポンと抜けて皆無ですよね。
元氏 いや、全部皆無だよ。昔は青年部。仏教青年、真宗青年。うちらの組もずっと続けましたよ。毎年研修会もやっていた。今はパタンと切れちゃったからね。
――仏青が各お寺に作られていったと聞いています。
元氏 仏青に来た人たちは、壮年になっても聞くということがある。
――そのつながりはありますね。しばらくぶりにお寺に来たという人で、元は仏青に身を置いていたとよく聞きます。そういう動きがなかなか難しいというか、そこに目が向かないですね。
元氏 住職たちはみんな裕福になったからね。まあそんなことまでしなくても、食べていけるという感じがあるでしょう。でも、昔はそんなことないんだよね。食べられない時代だから。だから、少しでも聞いてお寺に来てもらわないとという意識は強かった。うちはそんなに裕福ではないお寺だったけど、前住の時には若い人たちが集まって、勤行の練習やら仏法を聞く会は作っとったんだな。それは長続きしなかったけれども、何年かやったみたいですね。そういう人たちが集まって聞いたという世界があるよ。
壮年部を作るという本山の方針が出た時に、私は作ろうと思っていなかったんだけれども、たまたま昔からよく聴聞しているお家があって、そのころはまだ30代の人が、私に青壮年会を作らないかいと言うんだ。人集めはわしがやるからと。その人から「わしも行くんだから、何時から来てくれよ」と電話が行くんだよね。私は一言も言わない。それは効くね。みんな来ましたよ。
――その当時、仏青を作られているお寺は、布教師さんを呼ばれていたのでしょうか。
元氏 青年会研修会は講師を呼んだけれども、自坊の場合は全部住職だ。
――そこなんですよね、きっと。経済的なこともあったでしょうが、そこにやはり自らが語るということが行われていった。
元氏 そうそう。語るという時は自分も勉強しなければ語れないでしょう。それとやっぱり、住職が声をかけるよりも、ご門徒同士が声をかけてもらったほうが集まる。だから、夜でも毎回二十人ぐらい集まってくるんだよね。
――それはお講の形態ということなのでしょうか。
元氏 それはお講の形態とは別だ。お講はうちらでも四ヵ所ぐらいあってね、それでお講になるとね、大谷派の門徒ばかりではなくて、真宗の門徒みんな来ているんだよね。それから禅宗さんも真言さんもみんな来ているんだよね。みんなで聴聞するという、やはりそれが同朋会の始まりになったし、また、そういう人たちが中心になったと思います。
――これからは、ますます青壮の人を見出すという作業を始めなければ大変ですね。今お参りに来ている人たちは、言ってみれば先代の貯金で食いつないでいるような気がするのですね。
元氏 だけど、御遠忌というのはありがたいな。やっぱり聴聞してきた家の者は必ず来る。聴聞しない家の者は来ない。
――それはありますね。
元氏 だから、ご縁というのは、やっぱり聞いてきたご縁だわ。その世界は続くね。だから今、うちは同朋会一本に絞ったのです。
――そこには若い人もいれば、いろんな世代がおられるということですね。
元氏 若い人も壮年もみんな一緒になって聞く。
――子どもからお年寄りまで同じ話を同じ場所で聞けるのが真宗なのですよね。
元氏 昔はお参りに子どもを連れて参ったでしょう。報恩講にみんな呼ばれたんだ。今、年寄りになった連中もあの時にばあちゃんに連れられてお寺の報恩講でお斎をよばれて、知ったんだよ。
――そういうことですよね。ただ、地方は人口が減って若い人がいなくなる中で、若い人の持つ意義は大きいですよね。だから今、そういう人を育てないと、ちょっとガタガタになるような気がしないでもないですね。
元氏 みんなそう言うけど、わしは心配ないと言うのよ。若い者が全然お寺に関心ないと。それなら、お前、若い時に関心あったかと言うんだよ。そんなことより、自分の家で、朝晩お内仏に参っているのかどうか。行事がある時にちゃんと参っているのか。そのほうが大事だって言うんだよ。歳をとったら、否が応でも先が見えてくるんだから、聞かざるを得ないんだよ。だから、心配しなくていい、ちゃんと参ると。
――参っているところの若い者は、やがて必ず参る。参らないところは参らない。その論で行くと、やっぱり年配の人が本当に道を求めて参るということが大事なんですね。
元氏 それが一番大事なんだよ。そして、参らんかった者も歳をとってくると気になるのよ。わが道、気になるな。そうすると、たまに行かないと都合悪いかなということになるんだよ。
■推進員となることの意味
――推進員の方とお話しすると、推進員とは一体何かと問われたり、育成員のほうからは推進員制度は必要なのかという意見をたびたび聞かされるのですね。先生のところは自坊で前期教習を十数回されて、そして教区の後期教習にも送り出されています。先生にとって推進員制度はどういうものなのでしょうか。また、同朋会運動の推進員制度は、自坊にとってどういう意義があったのでしょうか。
元氏 やっぱり、法を聞く先頭に立ってもらうことです。だから、お彼岸でも報恩講のお参りでも、推進員になっている者はほとんど参りますよ。それは本山で言われてきているでしょう、三日間、聞法の先頭に立ってくれと。そして、私は聞法の先頭に立ちますと宣誓してきた。その宣誓が効いているのよ。私は本山の御開山の前で宣誓してきたと。そういうご縁というのは大事だよ。
昔は後期教習に行く前に教務所で前期教習を行ったのですよ。後期教習に出発する前の日の昼まで前期教習を行って、昼から出発です。それを止めたのは教化委員会です。なぜかと言えば、一回ぐらい聴聞して後期教習に出て行って、推進員になっていくのはおかしいという意見が出たのよ。
――教区主催の後期教習には、いろんな地方の人が来ますよね。参加される方には、やはり温度差があります。まあ旅行感覚で参加する人もいますし、ぜひ行きたいと思って来られる人もいる。しかし先生は、入り口はどうであっても、本山に行って宣誓をして帰ってくることが大事なんだと。
元氏 それが大事です。入り口はいろいろあると思う。それぞれいろいろ思いがあってね。でも、帰ってきたら、その人を聴聞の場に出すことが寺の住職の仕事ですよ。そして、本人も一遍は御開山の御真影の前に参りたいという意欲が後期教習に行かせているんだから、どういう動機であってもただの観光でないんだよ。それは大事にしなければならんですよ。だから、高潔な使命感を持たせてなんて言ったら、誰も行く者いないよ。
――そこに引っかかるのですね。
元氏 みんな変なところに引っかかっているんだよね。だから、うちは行かない年もあるけど、ほぼ毎年行っているんです。初めは駐在を信頼して付いていかなったけれども、門徒の人が本当に安心するのなら、やっぱり寺の者も付いていったほうがいいと思って、それで、うちの住職がずっと付いていくのです。
――必要以外の不安を掻き立てる必要はないですからね。
元氏 一緒に付いて歩けばね。
■同朋会運動の功罪
――最後に先生が見ておられる同朋会運動の功罪についてお聞かせください。同朋会運動の源流まで尋ねると、間違いはないですよね。
元氏 間違いない。
――ただ、歴史を重ねることによって、その源流が見失われたり、変質したり、そして願いがあっても施策的に教化の現場に相応しないという場合もありますよね。そういう意味で、同朋会運動の源流はさておいて、同朋会運動五十年の流れの中で我々が見失ってきたものについて、先生は何を感じられているでしょうか。
元氏 同朋会運動が始まる前は、お寺の法座しかなかったですよ。我々も勉強するところがなかった。学問したから偉いとか、学問しないから偉くないという問題ではなくて、やはり同朋会運動をやる時はまず人作りをしなければならないんですよ。衣を着ている者の中で先頭に立つ者をつくらなければならないでしょう。
それで、本山では伝講と伝研とやった。伝講は三ヵ月です。伝研は一週間。この人たちが出てきたんだ。北海道からは、白井豊賢さんや山本良超さん、何人かが伝講に行っている。今みたいな研修道場はないからね。同朋会館の三階だった。あそこに二段ベッドを置いて、そこで寝泊りしてやったんだよ。
――それは何だったのでしょうか。昔が暇だったということは決してないと思いますし、三ヵ月寺を空けるということは大変なことですよね。そこまで動かした機運がまずあったということなのでしょうか。
元氏 ある時、白井豊賢さんに「なんで駐在をやったんだ」と聞いたことがあるんです。そうしたら、山本さんが駐在になって成長したから、俺も成長したいと思って駐在にしてもらったと言うんだ。そういうふうに見ている世界があった。
――そういう刺激し合う世界も今はないのかもしれませんね。
元氏 私たちは仲間を作っていました。山本良超、白井豊賢、寺澤長麿、加藤真、両瀬正男。その五人とね、真宗ということについて、教区・教団はちゃんと考えなければダメでないか。一度集まるかと言って、一泊二日で集まったということが始まりでした。毎年、一、二回集った。
――それはもう全部手弁当で。
元氏 手弁当で。誰も手当なんて思っていない。
――いま手弁当で集まって、そういう場を自ら作り出すというような気概を私たちは失ってしまっている。そのあたりは大事ですね。
元氏 それは馴れ合いではダメなんだよね。喧々諤々でやらないと。よくみんなと喧嘩した。まあそれで議論が終わったら一杯飲むかと。その後、佐藤降玄さん、寺永弘文さん、秋山誠さん、そういう人たちが入って、人数が増えていった。
――それは本山で動き出している同朋会運動の刺激を受けてということなんでしょうね。
元氏 そうそう。この中には宗務役員や教研の所員もいた。向こうに行ってどういう考えで何をやっているのかと聞いて、それはちょっと違うのではないかと議論した。
――同朋会運動という大きな流れの中で、組織としてどう動いたというより、地方に人を生み出して、その人たちが動き出したというところに地方にとっての同朋会運動の意味があるのですしょうか。
元氏 そうだね。そして、方向が間違っていかないかという問題をお互いに語ったということもある。
――それは運動の方向性ですか。
元氏 そうそう。宗門の動き、教区はこれでいいのかと。教区は独立すべきだということをいつも言うんだ。北海道は独立するという気概がないと、いつまでも流されて動いていく。それではダメではないかと。でも、こうやって宗門とのつながりがあるからね。これは切るわけにはいかないから。
――今から30年ぐらい前、私が学校を終わって北海道に帰ってきたころは、任意の学習会がたくさんできていましたよね。
元氏 開申の問題があって同朋会運動が頓挫した。同朋会運動が今、頓挫している大きな原因は開申だよ。
――要するに、信仰運動にかかり果てられなくなったということですね。そのような中で、我々の先輩たちは同朋会運動に連動するような任意の学習会が作られました。それを今も引き継いでいるのですが、形だけが残っていて、みんながそれに縛られているというのが現状ではないのかと思うのです。
元氏 それは仕方がないと思う、長く続けばね。長く続けばそういう傾向になると思うよ。それは人数の問題ではなくて、ここに座る者が何人本当に学習する意欲があるかないかの問題だと思う。それは三人でも五人でもいい。うちらは長くやっていた学習会を止めたんです。
――そうですか。
元氏 私はこの間から若さんたちに、教学の問題でこういう問題がきちんとしとらんぞということは言っている。もう一遍問い直さなければダメだ。じゃあそれを問うかというと、なかなか難しいですね。
――最近、念仏ということと、信心が課題になるという非常に大事な部分が欠落して語られているのではないかと感じているのです。
元氏 このごろ、定例で聴聞すると、やっぱり煩悩の話をしますよね。煩悩の話というのは善悪の話です。そして、結局のところ、善悪の話で終わる。念仏のところに行かないし、念仏も付け足し。信心も付け足し。それで終わるでしょう。それがやっぱり気になるということはあります。
――それは同朋会運動の流れの中で、特に私たちの世代に入ってきて、漫然と運動という言葉に酔って、そこに身を置いていると、なにかやっているような気持ちになる。その中で、私たち自身が信心ということを課題にしないで語ってきたということはあるんですよね。
元氏 教学の中心がボケたということ。
――そういうことなんですよね。
元氏 『歎異抄』には念仏と信心しかないでしょう。『教行信証』だってそうです、行信の問題だから。それがどこか隅っこ行ってしまっています。
――だから、学習会を立ち上げる熱とか、御遠忌で身を削って世話をする熱ということの源流は、信心の問題ですよね。
元氏 そう。
――信心が課題となった時に本当に動きができるのでしょうか。
元氏 自分がどうして目を覚ましたのかという問題は、そこから出てくるでしょうね。
――きっと先生が何人か集まって激論を交わした時は、やっぱり信心ということを一つ外せない課題として抱えての議論ですよね。だから、世間の議論とはちょっと違うんですよね。
元氏 違う。だから、手を上げそうなぐらいの議論をしても、やっぱり元に戻りますね。
――今は、きっと方法論の議論なんですよ。どうしたらいいんだろうという。
元氏 方法論は要らないんですよ。だから、念仏と信心の問題ということがきちっとしないとね。念仏によって目覚めさせられている信心の問題。このごろになって、やっとこういうことだったのかなあと。それがずっとはっきり分からなかったなあという気がするよ。
■私自身が見失ってきたもの
――やがて三年後に御遠忌を迎えて、同朋会運動五十年が一応の節目となります。その後で経済の問題も含めて、今までなかったいろんな問題が出てくるでしょう。教区や宗門、我々の現場がどう歩んでいくかは非常に難しいですよね。まあ先生に言わせるとシンプルなんでしょうけど。
元氏 難しくないですよ。いや、教えがはっきりしていればね。お寺ってなんだっていうことになれば、お寺というのは、私に言わせれば、浄土の荘厳です。浄土の荘厳がどうして見えるかと言えば、ご信心がなければ見えないでしょう。
そうすれば、お寺がなかったら、この地域に信心の中心がなくなるわけでしょう。お荘厳の世界は象徴の世界ですから。だから、今は案外、お荘厳とか象徴というのは分からない時代なのでしょう。
――かたちですからね。
元氏 かたちはどういう意味を持っているのかというものが見えない。
――そこを明確にするということですね。
元氏 教学としては、そこを明確にするということが大事じゃないですか。ただ、お寺が経済で潰れていく時は仕方がないですよ。潰れていく時は潰れていったらいいと思う。
――そういうことなのでしょうね。
元氏 本堂はお寺で葬式をすることになったから、これだけのものが建ったんですよ。結局、葬式のために作ったようなものでしょう。だから、私は本堂や納骨堂を建築した時にご門徒に言ったのは、うちは葬式宗ではないぞって。納骨堂を建てたら、みんな納骨堂に参って、本堂へ参らないの。うちは納骨宗ではない。真宗なんだぞと。だから、本堂はどういう意味を持っているのか。門徒が寄付したというけど、これは寄付したのでない。これは仏さまのものだよ。だから、仏法領ものということを忘れているだろうと。仏法領のものだから、私のものではない。門徒のものでもない。仏法のものだから。
――一時、寺は住職・坊守のものではない。ご門徒のものだということがちょっとありましたね。
元氏 そうではなく、仏法領のもの。だから、ご縁のある間は、仏法領のもののところで私たちは育てられているんだからね。
――そこの意味がはっきりしないと守りきれないかもしれないですね。
元氏 それが浄土の荘厳でしょう。私のものでない、仏法領のものなんだから。我々が教えに目覚めて信心をいただく、目覚めていく道場だからね。そういうことをはっきりさせれば、どんなお寺にいてもいいんじゃないかと思うけどね。経済的に潰れる時は潰れる。縁がなかったんだから。
――なにかはっきりしました。物事の考え方自体、本当は非常にシンプルなものなんでしょうね。
元氏 そうですよ。
――いろんなものを付けるから、身動きできなくなるのですね。
元氏 自分が執着しているから。
――そこにきちっと、同朋会運動が見失ってきたというよりは、私自身が見失ってきた大事なものを取り戻すということですよね。五十年ということを機縁にして、語り合って、問い直していくということなんだと思いました。ありがとうございました。