「青壮年特伝IN澄心寺」開催報告
去る、5月11日。私の所属する深川の澄心寺にて、青壮年特伝(以下、特伝という)が行われた。講師は金石潤導師(南第3組開正寺)にお越しいただき、「愛について」というテーマのもと、約1時間の御法話をいただいた。その後、あいにくの雨だったがお寺の境内にて懇親会をした。懇親会中はテーマの範囲に限らず参加者の皆さんは、自分の生活の中で困っていること、問題にしていることを思う存分語り合えた懇親会となった。
さて、この「愛について」というテーマであるが、私自身今最も聞きたい話ということで提案した。愛という言葉を辞書で調べてみると「大切に思う、暖かい感情、人をしたう心。異生をしたう心」とある。普段、私達は自分の都合にあった状況、思い通りの状況の中ではそういった思いも起ってくることもあるだろうが、一旦そうではなくなると先ほど引用したような思いとは逆で「他を簡び、嫌い、見捨て、そして見下していく」といった有り様が次々と浮かび上がってくる。そういった思いや有り様は自分の力ではどうやっても無くすることが出来ないのが事実である。しかし、何故このことが問題になるのかと考えてみると、「人と出会いたい、人と共に生きたい、人と繋がって生きていたい」といういのちの発露が、悲しみとなって湧き上がってくるからこそ問題としているのである。では、 真宗の教えの中で「愛」とはどのように教えて下さっているか。
講師である金石先生の御法話の中で私が最も気になったのが「慈悲喜捨」についてだった。他を慈しみ、他の悲しみを我が悲しみとし、共に喜び、差別を無くするということであるとお話された。これは四無量心、即ち思い量ることのない仏の心を表した言葉であると後に教えていただいたのだが、私がこの話を聞いてまず思い浮かべたのは仏のお心とは逆な自分の有り様である。更に仏教では貪欲または渇愛と捉えており、自分の欲求を満たそうとするのが愛であるとしている。「慈悲喜捨」とは、渇愛というところに立つのではなく、仏の願いに立てということを呼びかけているのではないだろうか。
以前、ある研修会で「仏法をいくら聞いても救いにならない」というお言葉をいただいた事がある。その方は二河喩の三定死を引用され、聞くしか道が無いから仏に聞いていくということを話された。私が求める救い、つまり自らの欲求を満たしていくことで終始しているのに対し、仏の願いに生きよと教えてくれたのではないだろうか 第11組 澄心寺 圓浄 和之
「青壮年特伝IN澄心寺」