親鸞聖人


1. 誕生と出家(九歳)

 一一七三(承安三)年、親鸞聖人は、京都にお生まれになりました。父である日野有範は朝廷に仕える役人でしたが、母についてはさだかではありあません。
 九歳の時、親鸞聖人は、後の天台座主・慈円のもとで出家されました。それから二十年もの間、比叡山延暦寺できびしい修行と学問にはげまれました。しかし、どれだけ修行と学問にはげんでも、さとりを開く道を見いだすことはできませんでした。


2. 法然上人とのであい(二十九歳)

 親鸞聖人は、二十九歳の時、比叡山の仏教と決別し、道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂にこもられました。そして、九十五日目の暁、聖徳太子の夢告にみちびかれて、法然上人のもとをたずねられます。法然上人は、だれに対しても平等に「ただ念仏もうしなさい」とお説きになっていました。親鸞聖人は、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとうなずかれ、法然上人を生涯の師と仰ぎ、念仏者として歩みだされました。
 法然上人のもとで、親鸞聖人は約六年間過ごされました。その間に、法然上人から主著『選択本願念仏集』の書写と真影(法然上人の肖像画)の制作を許されました。また、恵信尼公とであい、結婚されたのもこのころとされています。


3. 越後・関東での生活(三十五歳から六十歳ごろ)

 法然上人の念仏の教えには、親鸞聖人だけでなく、老若男女、身分を問わず、たくさんの人々が帰依されました。しかし、興福寺や延暦寺などの他宗派から強い反発を受け、ついに朝廷が弾圧に踏み切ります。その結果、四人が死罪、八人が流罪というきびしい処罰が下され、法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流罪となりました。親鸞聖人三十五歳の時でした。
 五年後、流罪が許された親鸞聖人は、法然上人の死を知ると、京都には戻らず関東へ向かわれました。そこで約二十年間滞在し、常陸(茨城県)の稲田を中心に、念仏の教えを広く伝えていかれました。
 また、この地において主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)を書きはじめられたとされています。


4. 京都での生活(六十歳ごろから九十歳)

 親鸞聖人は、六十歳ごろ関東から京都に戻られたといわれています。
 その後、関東では念仏の受けとめをめぐって、様々な混乱や対立がおこりました。そのなかで、誤った教えを広めた長男の慈信房善鸞と親子の縁を切るという悲しい出来事もありあましたが、親鸞聖人は、『教行信証』を書きすすめるとともに、終生同朋・同行に手紙や書物を送り、念仏の教えを伝え続けられました。
 一二六二(弘長二)年十一月二十八日、親鸞聖人は九十年の生涯を終えられました。末娘の覚信尼公ら家族や門弟たちが、死を看取り、葬儀をおこなったと伝えられます。遺骨は、大谷(京都市東山区)に埋葬され、小さなお墓が立てられました。このお墓が廟堂となり、やがて本願寺(真宗本廟)の御影堂へと受け継がれていくのです。この廟堂に関東(坂東)の門弟たちが参詣し、親鸞聖人をしのび念仏する姿が、後に坂東曲となったと伝えられています。

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