2013.05.01
『毎日新聞』2013年04月07日(日)「今週の本棚:想像ラジオ=いとうせいこう著 中島岳志 評」
声に耳を澄ませば・・・死者は生きている
あの日、津波が去った後、高い杉の木の上に一人の男が引っかかった。DJアーク。赤いヤッケ姿で、姿勢は仰向けだ。
彼は自らの死を認識しないまま、人々の想像力を電波にラジオ番組を流し始めた。それが「想像ラジオ」。リスナーの多くは死者だが、生者にも届く。大切なのは、生と死の二分法ではなく、聞こえるか聞こえないか。
現代は、あっという間に死者を忘却する。までるで忘れることが、社会を前に進める唯一の道であるかのように。何もなかったように事態にフタをして、次に進もうとする。
「いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」-それは、声を聴かなくなったから。
しかし、「想像ラジオ」のリスナーは、死者の声に耳を傾ける。DJアークの声は、イヤホンから水滴のようにつたい、世界をつなぐ。死者と生者が手を携え、一歩一歩、前に進む。
時に「想像ラジオ」の音は、言葉にならない。声にもならない。しかし、人々は意味を聞く。言葉にならないコトバが、そこには存在する。
死者とは一体だれか。彼らは生者とは別の「霊界」に住んでいるのか。そこは、この世とは切り離された別次元の領域なのか。
そうではない。死者の世界は、生者がいなければ存在しない。「生きている人類が全員いなくなれば、死者もいない」。両者は切り離すことのできない、密接不可分の存在なのだ。
生きている我々は、大切な人が亡くなると、喪失感を味わう。その人の空白に絶望し、生きる希望を失う。しかし、二人称の死は単なる喪失ではない。必ず我々は、死者となった他者と出会い直す。生者同士の頃の関係とは異なる新たな関係が生まれる。
だから、死者は生きている。そうとしか言いようがない。
DJアークは、言葉を紡ぎながら、そしてリスナーの声に耳を傾けながら、徐々に事態を把握していく。大地震がやってきて、津波にさらわれたこと。濁流に飲み込まれながら、杉の木に引っかかったこと。そして、もう息をしていないこと。
彼は、放送を続けながら、どうしても「あること」が気になる。それは、妻と息子と連絡が取れないことだった。
二人の声が聞こえない。どうしても聞こえない。二人は「想像ラジオ」のリスナーなのか。
DJアークは、生者に向けて声を届けようとする。妻の名前を叫んでみる。しかし、反応はない。
生者が死者の声をキャッチするのは、悲しみが湧く時だ。それは、不意にやってくる。あとは耳を澄ますことができるかどうかだ。
この悲しみこそ、死者のささやきのサイン。「本当は悲しみが電波なのかもしれないし、悲しみがマイクであり、スタジオであり、今みんなに聞こえている僕の声そのものなのかもしれない」
DJアークは、リスナーから励まされる。「想像せよ」と。その想像は、生者の心に悲しみを芽生えさせることができるか。想像と想像が重なる時、死者と生者は出会うことができるのか。
ラストシーンに、心の奥底から涙があふれた。
フィクションは、リアルを越えたリアルに迫る。荒唐無稽なシチュエーションこそが、現実以上の現実をあぶりだす。これが文学の力だ。
ポスト3・11の文学に、ようやく出会えた。間違いなく傑作だ。