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私にとっての聞法一遇

vol.1 前田瑞人(総務)

 「人間のいない国」-かなり以前、組で推進員養成講座(前期教習)を開催した際、講師の方からいただいた講題である。私たちが日頃手にし、食するものの背景に人の存在を見て取れない現代社会の在り方や関係の希薄さを切実に語られたように記憶している。社会の現実や地域で果たす寺や僧侶の役割ということ、おそらく氏ご自身が常に考え、課題として歩んでこられたことを丸ごと投げかけられ、僧俗共に考え、確かめさせていただいたことを想起する。
 時を経て新たな教区教化テーマの検討に際し、これまでのテーマを振り返ることとなった。個々のテーマで表現こそ異なるが、教えのもとで出あいや関わり、共にという世界が願われてきた。一人一人が互いを尊重し、認め、輝き合える「人間のいる国」の実現が仏の願いであり、真宗仏教の課題であることを教区の諸先生方は常に考え、大切にしてきたのだと今更ながら思う。その願いに背き、見失ってきたことを自問自答するしかない私である。しかし組や教区の様々な出遇いがこの私を育てる法縁であると教えられる。
 昨夏、紆余曲折で開催された東京五輪。女子バスケ日本代表の躍進に引き込まれ、YouTubeでも追ってしまった。どの世界でも良い結果を生み出す集団には相応の根拠があるのだろう。差異を超えて大きな目標にチャレンジする姿は美しく、輝いていた。チーム全体が仲良く見えて心が和んだ。発する温もりに胸の熱くなる盆の一時をいただいた。

vol.2 阿部信人(総務)

いまから二十年前、自坊に戻ったばかりの頃、
ある先生から「あなたは人間ですか?」と問いかけられた。
質問の意味が分からず困惑したのを覚えている。
何も答えられずにいると、先生はこう言われた。

「人間というのは間を生きている者ということです
『間』というのは間柄・関係・つながりのことです
そして、それは人だけのことではありません
様々な事とつながり、関わりをもって生きているということです
それが私たちの事実です
そのことを忘れないように、目を逸らさないように
ちゃんと向き合って生きていこうとする者を人間というのです
もし、そのことを忘れ、向き合うこともないのなら
それは『間』を見失っているということ
『間』が『抜けて』いるということです
それを『間抜け』というのです
あなたは人間ですか?
それとも・・・間抜けですか?」

あれから二十年。何度『間抜け』になっただろう。
いや、今でも『間抜け』のままか。
でも、ふとした時に思い出される言葉が有り難い。
「あなたは人間ですか?それとも間抜けですか?」
山の淡雪を眺めながら
今日も『間抜け』なわたしは『人間』でありたいとおもう。

vol.3 宮本正顕(広報)

よい言葉、よい文章は心の栄養になります。松尾芭蕉の俳句「古池や蛙飛び込む水の音」や、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」などが、時代を超えておよそ全ての日本人に読まれ、その精神的土壌に影響を与えていることは、言い換えればそれらの言葉が日本国民のアイデンティティの一端を形成しているということになるでしょう。
 同様に、正信偈や御文、法話の言葉などは、真宗門徒の宗教心を育み、そのアイデンティティを形成しています。私の場合、それはお経が単なる呪文ではなく、物語性をもった記録であると知ったときの驚きや、本山の修練で受けた講話での「何のために生きるのかと悩んでいる人は、今の人生に不満があるということです。」という言葉であったりします。
 しかし、この頃感じているのは、真宗の話に限らず、小説やドラマ等の作品に触れても、若い時分ほど発見や感動を得られなくなっているということです。
 仮に、「地球上の水は太古の昔より循環しており、理論上、コップ一杯の水に紫式部の分子が1つ入っていることになります」という話を聞いたとき、物理を学んでいる人であれば、その計算式に感動するかもしれません。一方、生きることに悩んでいる人であれば、自分の命が太古の昔から流れる命の一部であることに目覚めるかもしれません。
発見や感動に至るには、問いが必要なのでしょう。裏返せば、発見や感動がないのは問いがないということになります。
寺に身を置くようになり、ご門徒との関わりの中で仏法を伝える機会が多くなった自分。正直、「分からない」とは言いにくいものです。それでも、色々と分かったことにせず、問いをいただいたら一緒に考えてみる、その中で新たな発見や感動に一遇できる自分でいられたらと思います。

vol.4 阿部智(広報)

「拝み屋さん」
初めて耳にした時は何とも思わなかった言葉でも、時を経るとその心象も変わる。
「仏事・法事は亡くなった人の為にするものではありません。人の為と書いて偽りと読みます。仏事を偽りにしないで下さい」
十数年前に真宗の「し」の字も分からず、まさに「拝み屋さん」に身を置こうとする中、私の歩みの礎となったこの一言を、折に触れ思い出す。
それから月日が経ち、法務が日々の生活として馴染んできた頃に、ふと私の口からこぼれた一言。
「誰もいないお内仏の前で一人お勤めして何になるのだろうか」
主が留守にする仏間で一人、勤行することが毎月の勤めとなっていた。
私なりの「拝み屋さん」への抵抗のつもりだった。
その意図を汲んでくれた先達の言葉。
「本当に誰もいないのか」
「お前がいるじゃないか」と。
折に触れて、先達から私の「立ち位置」という事を問われることがある。
「仏事は人の為にあらず」と人には伝えながら、法を聞くことを怠る我が身を知らされる。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と宗祖はいただかれ、喜ばれた。
如来からは僧侶も門徒の垣根は無く、そこにはただ「一人(いちにん)」。
この私一人が聞法に遇うことを如来は絶えず願って下さっている。
今日も勤行を終えたご門徒のお内仏の前で、線香が燃え尽きるのを一人ただ静かに待つ。