親鸞Web | 真宗大谷派 北海道教区 教化本部のホームページ

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公開講座

  • 2月の公開講座【終了】

    • 日時2月21日(水)18時~20時
    • 講師金石 励成 氏(第4組正樂寺住職)
    • 講題「念仏もうさるべし」

    「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と、『歎異抄』第9条に記されています。「念仏をもうしても喜びが起こらない」という唯円の告白です。その告白に対し、親鸞聖人も「この不審ありつるに」と、「私も同じである」と答えるのです。この対話で明確になっていることは、二人とも、念仏をもうしていたという事実です。一方、「現代」を生きている私たちは、特に、真宗大谷派の僧侶として、住職として、ご門徒の方々と教えを聞き、共に仏道を歩むべき私自身が「念仏をもうしていないのではないか」という課題にぶつかるのです。私自身に起きる事実に真摯に向き合い、その事実を引き受けて生きるということはどのような生き方なのか、「現代」を生きる先達の生き方を学び、尋ねてまいりたいと思います。

    [ 2018.01.05 ] 

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時1月23日(火)18時~20時
    • 講師狐野 秀存 氏(大谷専修学院学院長)
    • 講題「往生極楽のみち」

    「みんな、仏に成りたいと願って、この学院に入学したのです。」竹中智秀先生(1932~2006)は、大谷専修学院の歎異抄講義の第一声で呼びかけられました。たまたま寺に生まれたり、縁あって入寺することになって、とにかく真宗大谷派の教師資格を取らなければならない、ということで学院へやってきた学生たちは、いきなり「仏に成りたいと願っているのです」と言われてとまどっていました。しかし不思議なことに、一年間、歎異抄の講義を聞く中で、「仏に成りたい」とまでは言い切れないけれども、自分には願いがあるのだ、願いがかけられているのだという内面の声に気付き、顔を上げて卒業していくようになりました。『歎異抄』第二章で親鸞聖人は、関東から来た同行たちに、「ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり」と声をかけています。この聖人の言葉を私どもへの呼びかけとして聞いていきたいと思います。

    [ 2017.12.07 ] 

  • 12月の公開講座【終了】

    • 日時12月22日(金) 15時~17時
    • 講師金倉 泰賢 氏(秩父別町 高德寺住職)
    • 講題「報恩講に思う」 

    今年も東本願寺会館の報恩講をお迎えする時季となりました。報恩講に拝読される蓮如上人、御俗姓の中に「毎年の例時として、一七ヶ日のあいだ、形のごとく報恩謝徳のために、無二の勤行をいたすところなり。」とあります。何か最近、「毎年の例時として」というお言葉が非常に意味あるお言葉として思われます。例時とは日本国語大辞典によると、常の決まりの時刻ということであります。私たちの先達が何があっても、常の決まりとして受け継いで勤めて下さり、今、私達も勤めさせて頂く御仏事、報恩講のお心を今一度、確かめさせて頂きたいと思います。

    [ 2017.12.05 ] 

  • 11月の公開講座 【終了】

    • 日時11月20日(月) 18時~20時
    • 講師藤原 正寿 氏(大谷大学 准教授)
    • 講題「濁世を生きる立脚地」 

    『大無量寿経』でお釈迦さまは、仏弟子阿難の問いに対して、「法蔵菩薩、今すでに成仏して、現に西方にまします。」と答えておられます。これは、すべての人が平等に救われなければ正覚を取らないと誓った法蔵菩薩が、すでに仏となったところから仏教は出発すると言うことです。
     私たちにとって仏教とは、これから都合の良い救済や平等を手に入れるための教えではないのです。これから救われようなどと言うのは、こちらのエゴでしかないと親鸞聖人は仰います。すでに救われている身であることに目覚め、現在に安んじて住することができる拠りどころをたまわるのが、親鸞聖人の開顕された仏道です。
     その救いを宗祖は、本願の仏道として顕かにされました。本願が私たちの上にはたらいているという気づきは、私有化しているいのちが転じられて、人生の上に確かな依り処をたまわるということです。共に、本願の教えに聞いていきましょう。

    聴講料 200円(聴講券12回分 2000円)
    会 場 東本願寺会館(北海道教務所)

    [ 2017.11.01 ] 

  • 10月の公開講座 【終了】

    • 日時10月23日(月) 18時~20時
    • 講師齋藤 研 氏(三条教区 正樂寺)
    • 講題「一人(いちにん)の成就」 

    人の身を受けて生まれてきたということは希なことです。しかし人の形をして生まれてきても、人と成っているかどうかは別の問題ではないでしょうか。つまり姿形は人であっても、その中身がどうなっているのか、どのような生き方をしているのか。その「人」とは何であるかを仏教では見つめ続けてきました。
     「一人(いちにん)の成就」という講題をお出ししました。「一人」の文字は普通には「ひとり」と読みますので「いちにん」と読むのは耳慣れない読み方だと思います。それを「いちにん」と読ませたのは何故か。そして、その「一人」が「成就」するとはどういうことか。『歎異抄』のお言葉を手がかりに、お話させていただきたいと思います。

    [ 2017.10.04 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時9月5日(火) 18時~20時
    • 講師伊藤 智秀 氏(第4組 明德寺)
    • 講題「本願の救い ?念仏者のすがた?」 

    『歎異抄』の作者は唯円とされ、その書には唯円が生涯耳の底にとどまるほど忘れられなかった親鸞聖人のお言葉が記されております。しかもそれは、親鸞聖人を通して出遇った如来の本願との値遇であり、そういう意味で『歎異抄』は唯円の御一代記聞書であり、出遇いの書物であると私は受けとめております。
    「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」(『歎異抄』第二章)
     ここに「よきひとのおおせをかぶりて」という言葉がございます。換言するならば「よきひととの出遇い」とも言えるのではないでしょうか。
     私自身も学びの中で、多くの先生方と出会う機会をいただき、そのこと自体は希有なることであると感じております。しかしそれも危ういもので、へたをすると出会い得た「よきひと」を絶対化して、その先生にもたれかかって生きようともします。言うまでもなく、それは決して「よきひと」に出遇ったすがたではないのでしょう。宮城顗先生は「出遇いは、常にひとつの道を歩んでいる人に出遇い、その人を通して、その人が生きている世界、求めているところに出遇うということ」と仰ります。ここに『歎異抄』を出遇いの書といただく私の所以があります。
     先達の教示を通し、あらためて『歎異抄』に学んで参りたいと思います。

    [ 2017.08.05 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月18日(金) 18時~20時
    • 講師宮本 浩尊 氏(第4組 天融寺)
    • 講題念仏と空性

    ~「念仏には無義をもって義とす」の意味~

     『歎異抄』第十条には、「念仏は無義をもって義とす。不可称不可説不可思議の故に」と述べられています。
     一般に「言葉」は、「義(意味)」を持ち、何らかの対象を表現するための手段です。従って、「言葉」は「有義」であり、「可称可説可思議」なものでなければなりません。しかし、親鸞聖人は、「念仏」という「言葉」を「無義」と定義し、その理由を「不可称不可説不可思議の故に」と表現しています。
     このことは、親鸞聖人が「念仏」を、我々が日常的に用いる「言葉」と区別していることを意味しています。では「念仏」は、我々が日常的に用いる「言葉」とどのように違うのでしょうか。本講座では、この問いを「空性」という観点から考えてみたいと思います。

    [ 2017.08.01 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時7月21日(金) 18時~20時
    • 講師吉田 敦史 氏(第4組 島松寺)
    • 講題大谷派なる宗門は何れの処に存するか。

    東本願寺が分立したのは関ヶ原の合戦から2年後の1602年です。以来江戸期を通じて浄土真宗を「門徒宗」又は「一向宗」と言い習わしてきました。明治という新しい時代を迎え、念願であった「浄土真宗」という宗名の公称が認められました。更に明治14年には「東本願寺派」としていた宗派名も「真宗大谷派」と改称されたのです。
    私たちは、この「真宗大谷派」という名称を何の疑問もなく日常的に使っています。改めてこの大谷派という宗派はどういうものなのか、一体どこに大谷派なる宗派団体が存在するのか、そのことを、東西分派が起こって415年、「真宗大谷派」と改称されて136年、両堂等御修復を含む宗祖の七五〇回御遠忌とが昨年完了し、これから当に立教開宗800年と宗祖誕生850年を迎えようとする時にあたり、蓮如上人以降一種の禁書であった『歎異抄』の再発見という明治の出来事を通してたずねてみたいと思います。

    [ 2017.07.03 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時6月16日(金) 18時~20時
    • 講師田中 昭親 氏(石川県 小松教区淨昭寺住職)
    • 講題歎異抄に思うこと(深信と往生)

    『歎異抄』の作者は親鸞聖人の弟子唯円房と言われていますが、正確には作者不詳となっています。また蓮如上人は「為当流大事聖教也」といいながら、「於無宿善機、無左右不可許之者也」と奥書されたのでしょうか。このことによって以前には、『歎異抄』を学ぶことに障りがあったとも聞いています。
     蓮如上人の『御文』は「六字釈」が多く見られるのに対して、『歎異抄』は「深信」にあるように思います。また「往生」を多く使われています。
     『歎異抄』は片仮名であり、特に十章までは短文でなじみ易いようですが、反面、分かりにくいのではないかとも思います。四章の「念仏していそぎ仏になりて」、五章の「念仏を回向して」、七章の「念仏者は無碍の一道なり」等々。

    [ 2017.06.04 ] 

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時5月18日(木) 18時~20時
    • 講師本田 優子 先生
    • 講題アイヌの伝統的世界観と現代社会での意義

    大学を卒業してから11年間、平取町二風谷というアイヌ民族の集落で暮らした私は、恩師・萱野茂先生やアイヌの古老たちから、今なお受け継がれているアイヌの伝統的世界観について学ぶことができました。そこには、現代社会に生きる私たちが学ぶべき本質的な教えがあると感じています。その後、大学に職を得た私は、アイヌの若者たちがアイヌ語やアイヌ文化、民族芸能を学ぶためのウレシパ・プロジェクトを学内に創設しました。
    今回は、アイヌの世界観についての概説や私自身の体験、現代に生きるアイヌの若者たちの学びの現状についてお伝えするとともに、アイヌ文化が北海道にあることの価値について考えたいと思います。

    [ 2017.05.02 ]