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公開講座

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時4月14日(金) 18時~20時
    • 講師三浦 崇 氏(札幌別院輪番)
    • 講題摂取不捨の利益

    丘の町・美瑛・美宙天文台台長も務められた物理学者の佐治晴夫さんは、その著書の中で、ネイティブ・アメリカンのオジブエ族について、次のように語られています。
     彼らは、日常の全ての出来事は例外なく創造主、神の意志によるものであるという絶対的信仰をもっていること。従ってどのような事が生じても、それは神の意志であるとして、全てを丸ごと受け入れる姿勢を持っていること。そして、その背景にあるものは神に全てを預ける謙虚さであり、それを保証するものは、決して自分たちを見捨てることをしないという神への信頼であること。
    それを目にした時、『歎異抄』で教えられている「摂取不捨の利益」という言葉を思い起こしました。
     佐治先生は、「オジブエ族の素朴な宗教観」とも言われますが、神への信頼を成り立たせる素朴さとはまた、摂取不捨の利益に目覚めさせる働きに通じるものかと思います。
     「後生の一大事」に目覚めることは、素朴な感覚の中に生きている事を教えられます。

    [ 2017.04.03 ] 

  • 3月の公開講座【終了】

    • 日時3月24日(金) 18時~20時
    • 講師両瀬 渉 氏(好蔵寺住職、旭川医科大学非常勤講師)
    • 講題病むこと、生きること

    ―善悪のふたつ総じてもって存知せざるなりー

    「健康」であることは、大切で尊いことであり、人々は健康を願います。健康は、私たちにとって「善」なることと思っています。一方、「病気」になることは誰も望んではいませんし、様々な不幸を招いてしまいます。私たちにとって「悪」なることと思っています。
    ところで末期がんなどの重篤な病気の人は、死の不安をかかえながら「生と死のはざま」に身を置いて苦悩されています。誰にとっても病気になるという可能性がある以上、この苦悩はすべての人々の課題でもあります。私たちの人生において病気や死は、単に不幸な「悪」なるできごとなのでしょうか。
    日頃、医師や看護師を目指している学生とともに学んでいることの一端を紹介しながら、宗祖の「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」という言葉の意味を、あらためて問い直してみたいと思います。

    [ 2017.03.03 ] 

  • 2月の公開講座【終了】

    • 日時2月22日(水) 18時~20時
    • 講師須磨 興人 氏(第4組 東興寺)
    • 講題法蔵菩薩から私達へ ~『歎異抄』第二章より~

    以前、お参りに伺った先での事でした。ご門徒さんから、「今、私がこのようにお参りが出来ることは、様々なご縁があって、不思議にも私にまで脈々と続いてきたからなのですね。本州から北海道に移り住むことがあったり、戦争や飢饉など、今まで多くの困難があっても、その時代を生きた先達の歩みに、どんなに辛くても、悲しくても、そして喜びに満ちた時も、常にその人と寄り添ってあることが、今自分にも寄り添ってくれている。面白くもあり、ありがたいことですね」と、微笑まれた姿を思い出します。宗祖は、『歎異抄』第二章の後半で、自分にまで頂かれた「お念仏の歴史」を師である法然上人から遡って、出遇いと感動を歩まれます。私もまた先達が歩まれた道を頂く一人であることを共に深めたいと思います。

    [ 2017.02.05 ] 

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時1月16日(月) 18時~20時
    • 講師金石 潤導 氏(南第3組 開正寺)

    [ 2017.01.07 ] 

  • 12月の公開講座【終了】

    • 日時12月15日(木) 15時~17時
    • 講師楠 信生 氏(第17組 幸福寺)
    • 講題「報恩と歎異」

    蓮如上人が『御文』で「そもそも当月の報恩講は、開山聖人の御遷化の正忌として、例年の旧儀とす」(聖典820頁)と述べておられます。このことは、当時すでに「昔からの儀式」として報恩講が受け止められていたことを示しています。そして今、私たちは報恩講を最も大切な真宗門徒の儀式と位置づけています。それは、真宗門徒の生き方を確かめつつ親鸞聖人の徳を讃仰する仏事として報恩講があるということです。
     現代社会の寺院を取り巻く環境の変化の中で仏事の意義も問い返される状況になっております。そうした状況の変化を認めつつ、蓮如上人が「例年の旧儀」と仰せられていることに注目したいと思います。つまり、単に昔から続けている儀式というにとどまらず、「例年の旧儀」が持つ大切な意義を、報恩と歎異ということで考えたいと思います。

    [ 2016.12.13 ] 

  • 11月の公開講座【終了】

    • 日時11月22日(火) 18時~20時
    • 講師伊藤 孝順 氏(第16組 昭法寺)
    • 講題「われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」

    「正しいのか」「正しくないのか」。
    幼少の時は「悪いこと」をすると叱られ、「良いこと」をすると褒められました。
    学生になり、「正しい」と〇、「間違い」だと×。
    今になり気がつけば「正しき者」になろうとする自分がいます。

    曽我量深師は『歎異抄聴記』で「歎異の精神」を「異なっているのは他人であるようにみえるが、それだけではない~省略~異なりは自分にあることを痛切に知らせていただく~省略~「先師口伝の真信に異なる」ものは、ほかにあるのではなく、自分にあることを歎異された」と述べられています。

    私たちは日常の問題を自分の外にみて、道徳観で是非を問うているのではないでしょうか。
    歎異抄から教えられる“異なり”から、自分をたずねていきたいと思います。

    [ 2016.10.26 ] 

  • 10月の公開講座【終了】

    • 日時10月27日(木) 18時~20時
    • 講師松澤 正樹 氏(第13組 智惠光寺)
    • 講題「歎異ということ」

    『歎異抄』の「歎異」は「異なることを歎く」と読む(前序)。
     しかし、これはもう何年も前のことだが、ある研修会で『歎異抄』について講義をされた先生が、一貫して「歎かれる」という言葉をお使いになり、一度も「歎く」と言われなかったことに驚きを感じたことがあった。その時の驚きはただ漠然とした、混沌としたものであって、いまもそのことが自分のなかではっきりとしたわけではない。しかし、『歎異抄』を拝読する大切な視点(視点という表現は適切でないかもしれない)をいただいたように思う。
     親鸞聖人は師法然上人から「如来よりたまわりたる信心」というお言葉をいただき(後序)、ご自身も使われている(第六章)。本講座では、このお言葉を手がかりとして、「歎く=歎かれる」という一見相矛盾するようなところに、真実信心をたずねていきたい。

    [ 2016.10.05 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時9月15日(木) 18時~20時
    • 講師四衢 亮 氏(高山教区 不遠寺)
    • 講題真宗念仏が開く時-歎異抄第二章を通して-

    「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし...」と始まる『歎異抄第二章』。背景には、親鸞聖人の名代として関東へ赴いた慈信房が、「私だけ、父親である親鸞聖人から夜こっそりと特別な教えを聞いたのだ」と言い出したことから起こった、お同行の間の混乱があると言われます。
     慈信の発言は、「やっぱり、念仏だけというのはどうも頼りない、何か特別なことがないと救われないのではないか」といった心根に響いたのかもしれません。一時は大勢のお同行が慈信の下へ集まったといいます。それを親鸞聖人は人々の信がたじろいで、まことなきことが現れて良いことだったと言われます。
     これは当時の人たちだけの問題ではなく、私たちの問題ではないでしょうか。私たちの何がはっきりしていないのか、親鸞聖人に尋ねてみたいと思います。

    [ 2016.09.13 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月17日(水) 18時~20時
    • 講師福島 栄寿 氏(大谷大学文学部准教授)
    • 講題「救われる」とは?-『歎異抄』に出遇った人の生き様を手がかりに-

    本講座のために、自宅で本棚を眺めておりまして、『歎異抄入門 親鸞と現代』(現代教養文庫 1961年)という、宗祖七〇〇回御遠忌の年に出版された文庫本が、たまたま目にとまりました。手にとって読んでみると、『歎異抄』に触れ、勇気づけられ、それまでの苦難に満ちた人生を、前向きな生き方へと転換された方々の体験が綴られていました。『歎異抄』の言葉が、その当時の人々に与えた影響力の大きさに驚かされる思いが致しました。今回の講座では、この『歎異抄入門』を通して知り得た、『歎異抄』に出遇った、ある方の生き様を通して、改めて、人が「教え」によって「救われる」ことの意味を、皆様と共に考えてみたいと思います。

    [ 2016.08.05 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時2016年7月27日(水)
    • 講師黑萩 昌 氏(南第3組法誓寺)
    • 講題「他力をたのみたてまつる悪人」

    「誰が悪いの彼が悪いのちゆうても、この源左ほど悪い奴はないでのう」。妙好人因幡の源左翁の独白である。ここで言われる、「源左ほど悪い奴はないでのう」という悪い奴とはどのような内容を持つものなのであろうか。もしそれが、他と比較してのことばであるならばそれはあまりにも自虐的で、そこには何の救いも見出すことはできない。
    仏法を聞くということは、我が身を聞く、我が身の罪の深いことを本願の自然で知らして頂く。『歎異抄』でいわれる「悪人」が、如来のはたらきにより知らされる自覚のことばであればこそ、「他力をたのむ」という出来事が不思議にも我が身の現実となる。悪人正機といわれるが、その悪人とは単に道徳・倫理の世界の話ではなく、如来に照らされた身の事実との出遇いそのものなのだと思う。
    「他力をたのみたてまつる悪人」こそが「もっとも往生の正因」なのである。

    [ 2016.06.30 ]