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公開講座

  • 11月の公開講座【終了】

    • 日時11月22日(火) 18時~20時
    • 講師伊藤 孝順 氏(第16組 昭法寺)
    • 講題「われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」

    「正しいのか」「正しくないのか」。
    幼少の時は「悪いこと」をすると叱られ、「良いこと」をすると褒められました。
    学生になり、「正しい」と〇、「間違い」だと×。
    今になり気がつけば「正しき者」になろうとする自分がいます。

    曽我量深師は『歎異抄聴記』で「歎異の精神」を「異なっているのは他人であるようにみえるが、それだけではない~省略~異なりは自分にあることを痛切に知らせていただく~省略~「先師口伝の真信に異なる」ものは、ほかにあるのではなく、自分にあることを歎異された」と述べられています。

    私たちは日常の問題を自分の外にみて、道徳観で是非を問うているのではないでしょうか。
    歎異抄から教えられる“異なり”から、自分をたずねていきたいと思います。

    [ 2016.10.26 ] 

  • 10月の公開講座【終了】

    • 日時10月27日(木) 18時~20時
    • 講師松澤 正樹 氏(第13組 智惠光寺)
    • 講題「歎異ということ」

    『歎異抄』の「歎異」は「異なることを歎く」と読む(前序)。
     しかし、これはもう何年も前のことだが、ある研修会で『歎異抄』について講義をされた先生が、一貫して「歎かれる」という言葉をお使いになり、一度も「歎く」と言われなかったことに驚きを感じたことがあった。その時の驚きはただ漠然とした、混沌としたものであって、いまもそのことが自分のなかではっきりとしたわけではない。しかし、『歎異抄』を拝読する大切な視点(視点という表現は適切でないかもしれない)をいただいたように思う。
     親鸞聖人は師法然上人から「如来よりたまわりたる信心」というお言葉をいただき(後序)、ご自身も使われている(第六章)。本講座では、このお言葉を手がかりとして、「歎く=歎かれる」という一見相矛盾するようなところに、真実信心をたずねていきたい。

    [ 2016.10.05 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時9月15日(木) 18時~20時
    • 講師四衢 亮 氏(高山教区 不遠寺)
    • 講題真宗念仏が開く時-歎異抄第二章を通して-

    「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし...」と始まる『歎異抄第二章』。背景には、親鸞聖人の名代として関東へ赴いた慈信房が、「私だけ、父親である親鸞聖人から夜こっそりと特別な教えを聞いたのだ」と言い出したことから起こった、お同行の間の混乱があると言われます。
     慈信の発言は、「やっぱり、念仏だけというのはどうも頼りない、何か特別なことがないと救われないのではないか」といった心根に響いたのかもしれません。一時は大勢のお同行が慈信の下へ集まったといいます。それを親鸞聖人は人々の信がたじろいで、まことなきことが現れて良いことだったと言われます。
     これは当時の人たちだけの問題ではなく、私たちの問題ではないでしょうか。私たちの何がはっきりしていないのか、親鸞聖人に尋ねてみたいと思います。

    [ 2016.09.13 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月17日(水) 18時~20時
    • 講師福島 栄寿 氏(大谷大学文学部准教授)
    • 講題「救われる」とは?-『歎異抄』に出遇った人の生き様を手がかりに-

    本講座のために、自宅で本棚を眺めておりまして、『歎異抄入門 親鸞と現代』(現代教養文庫 1961年)という、宗祖七〇〇回御遠忌の年に出版された文庫本が、たまたま目にとまりました。手にとって読んでみると、『歎異抄』に触れ、勇気づけられ、それまでの苦難に満ちた人生を、前向きな生き方へと転換された方々の体験が綴られていました。『歎異抄』の言葉が、その当時の人々に与えた影響力の大きさに驚かされる思いが致しました。今回の講座では、この『歎異抄入門』を通して知り得た、『歎異抄』に出遇った、ある方の生き様を通して、改めて、人が「教え」によって「救われる」ことの意味を、皆様と共に考えてみたいと思います。

    [ 2016.08.05 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時2016年7月27日(水)
    • 講師黑萩 昌 氏(南第3組法誓寺)
    • 講題「他力をたのみたてまつる悪人」

    「誰が悪いの彼が悪いのちゆうても、この源左ほど悪い奴はないでのう」。妙好人因幡の源左翁の独白である。ここで言われる、「源左ほど悪い奴はないでのう」という悪い奴とはどのような内容を持つものなのであろうか。もしそれが、他と比較してのことばであるならばそれはあまりにも自虐的で、そこには何の救いも見出すことはできない。
    仏法を聞くということは、我が身を聞く、我が身の罪の深いことを本願の自然で知らして頂く。『歎異抄』でいわれる「悪人」が、如来のはたらきにより知らされる自覚のことばであればこそ、「他力をたのむ」という出来事が不思議にも我が身の現実となる。悪人正機といわれるが、その悪人とは単に道徳・倫理の世界の話ではなく、如来に照らされた身の事実との出遇いそのものなのだと思う。
    「他力をたのみたてまつる悪人」こそが「もっとも往生の正因」なのである。

    [ 2016.06.30 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時2016年6月30日(木) 18時~20時
    • 講師伊藤 元 氏(日豊教区京都組德蓮寺)
    • 講題故問(ことさらに問う)

    私達には教えてもらわなくても知っていることはあります。しかし、自分の力ではどうしても気づけないことがあります。なかでも日常の関心のもう一つ奥にある願いは私たちの考えではとてもとどきません。呼び覚まされることがなければ、その願いは無きに等しいものになります。もしただ生きるというくらしだけならば、どのような人生が展開されるのでしょうか。

    [ 2016.06.07 ] 

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時2016年5月16日(月) 18時~20時
    • 講師結城 幸司 氏(アイヌアートプロジェクト代表)
    • 講題大いなる世界をともに行く

    生かされているを生きる。
    生きるに生かされている。
    イレスカムイ(私たちを育てる神)。
    私たちを育てるものへの心のあり方を
    学び合いたいと思います。

    [ 2016.05.06 ] 

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時2016年4月14日(木) 18時~20時
    • 講師寺澤 三郎 氏(第13組敎證寺住職)
    • 講題浄土の慈悲

    「解決しようのない様々な人生の出来事に、わからないことだらけの人生に、“うなづく”という不思議なことが私におこる・・・」これが南無阿弥陀仏のおはたらきなのではないだろうかと考えさせていただいています。これは一つの出来事を前向きに、あるいは、後向きに受けとめていくというような単純なことではありません。喜び、哀しみ、苦しみなど、その一つ一つの出来事が道となって、今の私の姿を教えられ、私全体を包んでくださるはたらきにであうという意味です。
    「論理は頭脳から生まれるが、真理は頭脳を包む」という岩本泰波さんの言葉があります。頭脳をたよりに人生を歩んでいく私、思いもよらないことだらけの人生、そんな中にあって私とその人生をまるごと包んでくださるおはたらきを「歎異抄」においては、「浄土の慈悲」と教えてくださっています。

    [ 2016.03.13 ] 

  • 3月の公開講座【終了】

    • 日時2016年3月8日(火) 18時~20時
    • 講師講 師 知花 一昌 氏(東本願寺沖縄別院)

    沖縄のこころといえば、「命どぅ宝」(ぬちどぅたから)です。一つしかない命を大切にすることは人類普遍の願いであり、法蔵菩薩の願心そのものです。(中略)「命どぅ宝」が沖縄のこころとして自他ともに認知されているのは、地上戦という耐えがたい特殊体験・多大な犠牲を通して得た教訓だからです。(中略)沖縄の戦後はこのようにして生き延びてきた人々の精神的葛藤、後悔、慙愧、血と汗と涙によって復興されてきたのです。このような人々を親鸞聖人は「いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり」、「悪人」と愛おしさをこめて表現したものだと思います。(『名古屋御坊』より)

    講師紹介 
    知花 一昌(ちばな いっしょう)。本名、知花昌一。1948年、沖縄県生まれ。1983年より下鴨哲郎氏の下でチビチリガマ「集団強制死」調査。1987年、沖縄国体で日の丸旗を焼却、1995年に懲役1年執行猶予3年の有罪判決を受ける。1998年より2010年まで読谷村議会議員を勤める。2012年、大谷専修学院修了、真宗大谷派僧侶となる。法名一昌。2014年、聞法道場「何我寺」を開寺。東本願寺沖縄別院衆徒。読谷村平和実行委員。

    [ 2016.03.08 ] 

  • 2月の公開講座【終了】

    • 日時2016年2月17日(水) 18時~20時
    • 講師照山大智氏(北第3組證真寺)
    • 講題「父母孝養」から真宗の仏事を考える

    『歎異抄』第五条には「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」と記されている。身近な者を亡くした遺族にとっては、非常に厳しく戸惑う言葉である。
     葬儀に始まり中陰・月忌・年忌という形式をとって仏事は勤められていくが、遺族の心情としては、亡き人に対しての追善供養という気持が仏事を勤めていくもとになっているように思われる。
    しかし一方では、真宗の教えは聴聞に尽きると先人たちは言い伝えてきた。仏事において、故人を供養したいという気持ちと、自身が仏法を聴聞するということはどのような関係になるのか。
     本講座では、浄土真宗の教えが、なぜ「聞く仏教」として開かれたのかを確かめ、その上で追善の仏事から報恩(念仏相続)の仏事への展開を考えたい。

    [ 2016.02.02 ]