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公開講座

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時1月16日(月) 18時~20時
    • 講師金石 潤導 氏(南第3組 開正寺)

    [ 2017.01.07 ] 

  • 12月の公開講座【終了】

    • 日時12月15日(木) 15時~17時
    • 講師楠 信生 氏(第17組 幸福寺)
    • 講題「報恩と歎異」

    蓮如上人が『御文』で「そもそも当月の報恩講は、開山聖人の御遷化の正忌として、例年の旧儀とす」(聖典820頁)と述べておられます。このことは、当時すでに「昔からの儀式」として報恩講が受け止められていたことを示しています。そして今、私たちは報恩講を最も大切な真宗門徒の儀式と位置づけています。それは、真宗門徒の生き方を確かめつつ親鸞聖人の徳を讃仰する仏事として報恩講があるということです。
     現代社会の寺院を取り巻く環境の変化の中で仏事の意義も問い返される状況になっております。そうした状況の変化を認めつつ、蓮如上人が「例年の旧儀」と仰せられていることに注目したいと思います。つまり、単に昔から続けている儀式というにとどまらず、「例年の旧儀」が持つ大切な意義を、報恩と歎異ということで考えたいと思います。

    [ 2016.12.13 ] 

  • 11月の公開講座【終了】

    • 日時11月22日(火) 18時~20時
    • 講師伊藤 孝順 氏(第16組 昭法寺)
    • 講題「われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり」

    「正しいのか」「正しくないのか」。
    幼少の時は「悪いこと」をすると叱られ、「良いこと」をすると褒められました。
    学生になり、「正しい」と〇、「間違い」だと×。
    今になり気がつけば「正しき者」になろうとする自分がいます。

    曽我量深師は『歎異抄聴記』で「歎異の精神」を「異なっているのは他人であるようにみえるが、それだけではない~省略~異なりは自分にあることを痛切に知らせていただく~省略~「先師口伝の真信に異なる」ものは、ほかにあるのではなく、自分にあることを歎異された」と述べられています。

    私たちは日常の問題を自分の外にみて、道徳観で是非を問うているのではないでしょうか。
    歎異抄から教えられる“異なり”から、自分をたずねていきたいと思います。

    [ 2016.10.26 ] 

  • 10月の公開講座【終了】

    • 日時10月27日(木) 18時~20時
    • 講師松澤 正樹 氏(第13組 智惠光寺)
    • 講題「歎異ということ」

    『歎異抄』の「歎異」は「異なることを歎く」と読む(前序)。
     しかし、これはもう何年も前のことだが、ある研修会で『歎異抄』について講義をされた先生が、一貫して「歎かれる」という言葉をお使いになり、一度も「歎く」と言われなかったことに驚きを感じたことがあった。その時の驚きはただ漠然とした、混沌としたものであって、いまもそのことが自分のなかではっきりとしたわけではない。しかし、『歎異抄』を拝読する大切な視点(視点という表現は適切でないかもしれない)をいただいたように思う。
     親鸞聖人は師法然上人から「如来よりたまわりたる信心」というお言葉をいただき(後序)、ご自身も使われている(第六章)。本講座では、このお言葉を手がかりとして、「歎く=歎かれる」という一見相矛盾するようなところに、真実信心をたずねていきたい。

    [ 2016.10.05 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時9月15日(木) 18時~20時
    • 講師四衢 亮 氏(高山教区 不遠寺)
    • 講題真宗念仏が開く時-歎異抄第二章を通して-

    「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし...」と始まる『歎異抄第二章』。背景には、親鸞聖人の名代として関東へ赴いた慈信房が、「私だけ、父親である親鸞聖人から夜こっそりと特別な教えを聞いたのだ」と言い出したことから起こった、お同行の間の混乱があると言われます。
     慈信の発言は、「やっぱり、念仏だけというのはどうも頼りない、何か特別なことがないと救われないのではないか」といった心根に響いたのかもしれません。一時は大勢のお同行が慈信の下へ集まったといいます。それを親鸞聖人は人々の信がたじろいで、まことなきことが現れて良いことだったと言われます。
     これは当時の人たちだけの問題ではなく、私たちの問題ではないでしょうか。私たちの何がはっきりしていないのか、親鸞聖人に尋ねてみたいと思います。

    [ 2016.09.13 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月17日(水) 18時~20時
    • 講師福島 栄寿 氏(大谷大学文学部准教授)
    • 講題「救われる」とは?-『歎異抄』に出遇った人の生き様を手がかりに-

    本講座のために、自宅で本棚を眺めておりまして、『歎異抄入門 親鸞と現代』(現代教養文庫 1961年)という、宗祖七〇〇回御遠忌の年に出版された文庫本が、たまたま目にとまりました。手にとって読んでみると、『歎異抄』に触れ、勇気づけられ、それまでの苦難に満ちた人生を、前向きな生き方へと転換された方々の体験が綴られていました。『歎異抄』の言葉が、その当時の人々に与えた影響力の大きさに驚かされる思いが致しました。今回の講座では、この『歎異抄入門』を通して知り得た、『歎異抄』に出遇った、ある方の生き様を通して、改めて、人が「教え」によって「救われる」ことの意味を、皆様と共に考えてみたいと思います。

    [ 2016.08.05 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時2016年7月27日(水)
    • 講師黑萩 昌 氏(南第3組法誓寺)
    • 講題「他力をたのみたてまつる悪人」

    「誰が悪いの彼が悪いのちゆうても、この源左ほど悪い奴はないでのう」。妙好人因幡の源左翁の独白である。ここで言われる、「源左ほど悪い奴はないでのう」という悪い奴とはどのような内容を持つものなのであろうか。もしそれが、他と比較してのことばであるならばそれはあまりにも自虐的で、そこには何の救いも見出すことはできない。
    仏法を聞くということは、我が身を聞く、我が身の罪の深いことを本願の自然で知らして頂く。『歎異抄』でいわれる「悪人」が、如来のはたらきにより知らされる自覚のことばであればこそ、「他力をたのむ」という出来事が不思議にも我が身の現実となる。悪人正機といわれるが、その悪人とは単に道徳・倫理の世界の話ではなく、如来に照らされた身の事実との出遇いそのものなのだと思う。
    「他力をたのみたてまつる悪人」こそが「もっとも往生の正因」なのである。

    [ 2016.06.30 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時2016年6月30日(木) 18時~20時
    • 講師伊藤 元 氏(日豊教区京都組德蓮寺)
    • 講題故問(ことさらに問う)

    私達には教えてもらわなくても知っていることはあります。しかし、自分の力ではどうしても気づけないことがあります。なかでも日常の関心のもう一つ奥にある願いは私たちの考えではとてもとどきません。呼び覚まされることがなければ、その願いは無きに等しいものになります。もしただ生きるというくらしだけならば、どのような人生が展開されるのでしょうか。

    [ 2016.06.07 ] 

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時2016年5月16日(月) 18時~20時
    • 講師結城 幸司 氏(アイヌアートプロジェクト代表)
    • 講題大いなる世界をともに行く

    生かされているを生きる。
    生きるに生かされている。
    イレスカムイ(私たちを育てる神)。
    私たちを育てるものへの心のあり方を
    学び合いたいと思います。

    [ 2016.05.06 ] 

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時2016年4月14日(木) 18時~20時
    • 講師寺澤 三郎 氏(第13組敎證寺住職)
    • 講題浄土の慈悲

    「解決しようのない様々な人生の出来事に、わからないことだらけの人生に、“うなづく”という不思議なことが私におこる・・・」これが南無阿弥陀仏のおはたらきなのではないだろうかと考えさせていただいています。これは一つの出来事を前向きに、あるいは、後向きに受けとめていくというような単純なことではありません。喜び、哀しみ、苦しみなど、その一つ一つの出来事が道となって、今の私の姿を教えられ、私全体を包んでくださるはたらきにであうという意味です。
    「論理は頭脳から生まれるが、真理は頭脳を包む」という岩本泰波さんの言葉があります。頭脳をたよりに人生を歩んでいく私、思いもよらないことだらけの人生、そんな中にあって私とその人生をまるごと包んでくださるおはたらきを「歎異抄」においては、「浄土の慈悲」と教えてくださっています。

    [ 2016.03.13 ]