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公開講座

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時2016年1月26日(火) 18時~20時
    • 講師波佐谷見正氏(第20組正念寺住職)
    • 講題終わりなき歩みに身をゆだねて

    「婆ちゃん、孫なんぼになった?」
     「3歳だ」
     「孫って、そんなにめんこいか?」
     「そりゃ、めんこいさ」
     「こんな厄介な婆だけど、婆、婆と呼んでくれる孫はめんこいもんだ。お寺さんも孫うまれたらわかるさ」
      自身の「非」を何気なく話してくれたご門徒のお婆ちゃんに「やさしさ」と「たくましさ」を感じたことが、今でも想い出されます。

     「如来弘誓の因縁に目覚め、僧伽を生きる」
     迷いの存在(いのち)が無量寿の名のりを聞きつづけ、往生人として成仏の道を歩む、そんなやさしい生活者に私もなりたい!?
          「あなた」と「共に」

    [ 2015.12.30 ] 

  • 12月の公開講座(東本願寺会館報恩講) 【終了】

    • 日時2015年12月22日(火) 14時~16時30分
    • 講師松岡満雄氏(第12組廣圓寺住職)
    • 講題病の身を引き受けて生きる

    「 ひとのいのちは、いずるいき、いるいきをまたずしておわることなれば」(歎異抄16章)。確かにそうなのだが、平生は考えもしない。それが5年前に大腸癌を告知され、既に肝臓に転移、手術を4回も重ねながら、現在不思議といのちながらえている。突然の告知に自分の人生これで良いのか、と自問自答・悪戦苦闘の日々を過ごす。「回心ということただひとたび」(同)ともあるが、ころころ転がるおのれの心。そんなとき先人の言葉が思い起こされる。「還るところはみなひとつ」(鈴木章子)。その言葉を述べた人、聞いた人、伝えた人、その言葉を生きて人生を納得して引き受けていった人々との出会い、法縁が尊く有り難い。耳の底に留まっている言葉を皆さんと一緒に改めて味わい出会い直していきたい。

    [ 2015.12.03 ] 

  • 11月の公開講座 【終了】

    • 日時2015年11月17日(火) 18時~20時
    • 講師尾角 光美 氏
    • 講題悲しみは 人をつなぐ 力

    尾角光美(おかくてるみ)
    一般社団法人リヴオン代表。
    自殺予防や遺族のケアに関して、全国の自治体・学校・寺院等の依頼を受け、講演・ワークショップを行っている。近著に『なくしたものとつながる生き方』(サンマーク出版)。

    「人は誰か特別なすばらしい人によって救われるのではなく、自分と他者の間に生まれる関係や、つながりによって救われるのだと思います」(尾角光美)

    「グリーフケア」という言葉をご存じですか?「グリーフ」は「大切な人・ものを失うことによって生じる感情や反応」で、「ケア」は「世話・配慮」のことです。
    尾角光美さんは、19歳の時に自死で母親を亡くして以来、自殺予防や遺族のケアに関する講演やワークショップを行っておられます。僧侶やお寺との関わりも深く、宗派を越えた活動を積極的になさっています。
     
    ※同日午後2~5時まで、北海道教務所にて「葬儀」「弔い」をテーマにした対話型ワークショップを尾角さんにしていただきます(主催:教化本部・じゃがネット)。こちらは事前申し込みが必要です(参加費:無料)ので、ご希望の方は北海道教務所(℡011-511-5211担当:谷本)までご連絡ください。

    [ 2015.10.26 ] 

  • 10月の公開講座【終了】

    • 日時2015年10月19日(月) 18時~20時
    • 講師髙瀬一法氏(第4組無礙光寺住職)
    • 講題無碍の一道

    先般、親族の葬儀をお勤めいたしました。癌でしたので緩和病棟で亡くなりました。真宗には「平生をいわず、臨終をいわず。ただ信心をうるとき、往生すなわちさだまるとなり」『浄土真要鈔本』と教えられておりますが、「なんとなく生きている」自分は、親族の死に向かい合いやっと生死の問題を思い起こさせていただいたことであります。
    臨終の病室でまさに、「死に立ち向かえないような思索はすべて無用の長物」(『宗教は人を救えるのか 釋撤宗』)ということが実感されました。
    しかし、ここで「臨終の病室でひとり居る時に間に合うものを持っていなければ」「いや、生きている今、死んでいける自分にならなければ」と死に対抗するために武装しようとやっきになっている自分に気がつきます。自分の中から死に対抗できる何かが絞り出せるはずだ、そのためにはどうしたらいいのだろう?と思いは、他力の信と逆方向に暴走していきます。そういった散乱する思いの揺れを仏法にたずね、皆様の参考になればと思います。

    [ 2015.10.09 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時2015年9月17日(木) 18時~20時
    • 講師小町 保雅 氏(根室別院輪番)
    • 講題念仏もうしそうらえども

    「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」(聖典629頁)、20才の時はじめて聞いた言葉でしたが、正直なところ何も感ずるところもなく素通りしていた言葉でした。親鸞聖人のお言葉を誰よりも大切に聞きひらき、行住坐臥その言葉をいただいていた聖人の弟子唯円が師へ問いかけた言葉です。
     いつの頃からでしょうか、この言葉が私を素通りせずふれるたびに言葉の方から問われるようになったのは。
     親鸞聖人ご入滅後、先師の口伝の真信に異なることを歎き、不審を散ぜんがため著わされ、「同心の者よ」と、道を歩もうとする者への呼びかけであろうと思います。その呼びかけの中の一言にポンポンと、「ちょっと待て、今のお前は?」と肩を叩かれたような、お前はお念仏と生活の乖離に痛みを感じないのかと、先の文言が聞こえてくるのです。

    [ 2015.09.10 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月24日(月) 18時~20時
    • 講師磯石 靖克 氏(第4組 靜正寺住職)
    • 講題仏心というは大慈悲これなり

    私が専修学院に在学中に、まだ日本語があまり話せないブラジルの方が同じ班にいました。ある時、院長先生の講義を受けた後の座談会で、慈悲について話し合いがされました。みんながたどたどしい英語で通訳しながら「慈悲とはlove」つまり「愛」の事であるという具合に座談が進められました。
     その時は私もその言葉が一番適切な訳だと思いましたが、本当に慈悲とは「愛」という言葉に置き換えて良いのか疑問にも思いました。
     愛という言葉は様々な場面で見たり聞いたりする言葉ですが、慈悲という言葉は日常ではあまり使う場面がありません。仏教で説かれている慈悲という言葉を、日常で使う「愛」という言葉に置き換えるのは全くの間違いではないと思いますが、重なる部分とそうでない部分とがあるようにも思われます。
     『観無量寿経』には「仏心というは大慈悲これなり」とあります。慈悲ということから仏さまのお心をたずねてみたいと思います。

    [ 2015.08.04 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時7月7日(火) 18時~20時
    • 講師桂 励 氏(利尻町 大安寺住職)
    • 講題念仏者は、無碍の一道なり

    私の生活を振り返ってみますと、今起こっている事への対応と処理、これから起こりうるであろう事に対する準備と管理、ただその事への掛かり切りの生活です。ですから私の周りは障害だらけのように見えてきてしまいます。月忌参りにしてもマンネリ化し、「この人はあの人は・・」とレッテルを張って定型会話になりがちです。そんな中、女性のご門徒に言われた一言です。その方は殆ど家から出ないのです。体力を付けようとたまに散歩するのですが、「今日は寒い、風が強い」と言い訳ばかりするので、お参りに行くたびに「今日は天気がいいよ、風ないよ、頑張って」と発破をかけ続けてきました。すると先日、帰り際に「私なりにやってるから、頑張ってって言わないで」と言われました。こちらとしたら心配して言ったことで、一瞬ムカッときましたが、人や物、事柄までも決めつけて行く私の在り方は、自分自身に対しても「こうでなければいけない」とレッテルを貼り縛り付けていたことを思い知らされました。
     レッテル貼りは止められませんが、貼らずにおれない日常を皆さんと共に歎異抄第7章に訪ねて行きたいと思います。

    [ 2015.07.01 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時6月16日(火) 18時~20時
    • 講師八木 千春 氏・竹原 了珠 氏
    • 講題門徒は聞徒-僧侶と門徒の二人会-

    八木千春と竹原了珠で『やっちく二人会(ににんかい)』

     「僧侶だけが教化を担うのはもったいない。」
    意気投合した門徒(推進員)と僧侶が、素人落語と未熟な法話の二人三脚をはじめました。私たちの願いはただ一つ。僧侶と門徒の協働スタイルが、お寺の新しい可能性を生むはず。その提案を、興行としてさせていただきます。

    [ 2015.06.16 ] 

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時5月21日(木) 18時~20時
    • 講師高名 和丸 氏(奥羽教区正行寺住職)
    • 講題念仏申し本願のこころをきく

    歎異抄第2章に「ただ念仏」という言葉があります。親鸞聖人が聞き取られた仏道をひと言であらわしている、大切な言葉です。ところがこの「ただ」という言葉を蓮如上人は、赤い勤行本にも載っている「御正忌」という御文の中で、「ただ南無阿弥陀仏をとなえるだけで助かると思っておったら、それはまったくおぼつかないことですよ」と述べています。そうすると二人の言っていることが違うように聞こえるという疑問が起こってくると思います。
     実は、蓮如上人の「ただ」は、中身がないという意味での「ただ」です。となえるという行為があるだけで信心という中身がない。親鸞聖人の「ただ念仏」というのは、ただ念仏申し本願のこころをきく、という信心のすがたをあらわす「ただ」です。ですから、二人の言っていることに矛盾はないのです。
     「ただ念仏」という正信念仏の仏道を歎異抄は生き生きと語っています。

    [ 2015.04.19 ] 

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時4月16日(木) 18時~20時
    • 講師泉 惠機 氏(長浜教区清休寺・大谷大学客員教授)
    • 講題寺院・僧侶の社会的存在意義

    歎異抄の第12章から、ことに次の言葉に注目したい。
    「学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生のかいにてもそうらわめ。・・・」(『真宗聖典』632頁)
    ここに述べられている言葉は、皇太子聖徳奉讃に
     久遠劫よりこの世まで
      あわれみましますしるしには
      仏智不思議につけしめて
      善悪浄穢もなかりけり(『真宗聖典』508頁)
    というお言葉とも重なり合っている。
     この「善悪浄穢なし」という、人間へのまなざしは、この時代に於いては特に驚くべき言葉であることを心に刻みたい。

    [ 2015.04.04 ]