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公開講座

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月24日(月) 18時~20時
    • 講師磯石 靖克 氏(第4組 靜正寺住職)
    • 講題仏心というは大慈悲これなり

    私が専修学院に在学中に、まだ日本語があまり話せないブラジルの方が同じ班にいました。ある時、院長先生の講義を受けた後の座談会で、慈悲について話し合いがされました。みんながたどたどしい英語で通訳しながら「慈悲とはlove」つまり「愛」の事であるという具合に座談が進められました。
     その時は私もその言葉が一番適切な訳だと思いましたが、本当に慈悲とは「愛」という言葉に置き換えて良いのか疑問にも思いました。
     愛という言葉は様々な場面で見たり聞いたりする言葉ですが、慈悲という言葉は日常ではあまり使う場面がありません。仏教で説かれている慈悲という言葉を、日常で使う「愛」という言葉に置き換えるのは全くの間違いではないと思いますが、重なる部分とそうでない部分とがあるようにも思われます。
     『観無量寿経』には「仏心というは大慈悲これなり」とあります。慈悲ということから仏さまのお心をたずねてみたいと思います。

    [ 2015.08.04 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時7月7日(火) 18時~20時
    • 講師桂 励 氏(利尻町 大安寺住職)
    • 講題念仏者は、無碍の一道なり

    私の生活を振り返ってみますと、今起こっている事への対応と処理、これから起こりうるであろう事に対する準備と管理、ただその事への掛かり切りの生活です。ですから私の周りは障害だらけのように見えてきてしまいます。月忌参りにしてもマンネリ化し、「この人はあの人は・・」とレッテルを張って定型会話になりがちです。そんな中、女性のご門徒に言われた一言です。その方は殆ど家から出ないのです。体力を付けようとたまに散歩するのですが、「今日は寒い、風が強い」と言い訳ばかりするので、お参りに行くたびに「今日は天気がいいよ、風ないよ、頑張って」と発破をかけ続けてきました。すると先日、帰り際に「私なりにやってるから、頑張ってって言わないで」と言われました。こちらとしたら心配して言ったことで、一瞬ムカッときましたが、人や物、事柄までも決めつけて行く私の在り方は、自分自身に対しても「こうでなければいけない」とレッテルを貼り縛り付けていたことを思い知らされました。
     レッテル貼りは止められませんが、貼らずにおれない日常を皆さんと共に歎異抄第7章に訪ねて行きたいと思います。

    [ 2015.07.01 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時6月16日(火) 18時~20時
    • 講師八木 千春 氏・竹原 了珠 氏
    • 講題門徒は聞徒-僧侶と門徒の二人会-

    八木千春と竹原了珠で『やっちく二人会(ににんかい)』

     「僧侶だけが教化を担うのはもったいない。」
    意気投合した門徒(推進員)と僧侶が、素人落語と未熟な法話の二人三脚をはじめました。私たちの願いはただ一つ。僧侶と門徒の協働スタイルが、お寺の新しい可能性を生むはず。その提案を、興行としてさせていただきます。

    [ 2015.06.16 ] 

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時5月21日(木) 18時~20時
    • 講師高名 和丸 氏(奥羽教区正行寺住職)
    • 講題念仏申し本願のこころをきく

    歎異抄第2章に「ただ念仏」という言葉があります。親鸞聖人が聞き取られた仏道をひと言であらわしている、大切な言葉です。ところがこの「ただ」という言葉を蓮如上人は、赤い勤行本にも載っている「御正忌」という御文の中で、「ただ南無阿弥陀仏をとなえるだけで助かると思っておったら、それはまったくおぼつかないことですよ」と述べています。そうすると二人の言っていることが違うように聞こえるという疑問が起こってくると思います。
     実は、蓮如上人の「ただ」は、中身がないという意味での「ただ」です。となえるという行為があるだけで信心という中身がない。親鸞聖人の「ただ念仏」というのは、ただ念仏申し本願のこころをきく、という信心のすがたをあらわす「ただ」です。ですから、二人の言っていることに矛盾はないのです。
     「ただ念仏」という正信念仏の仏道を歎異抄は生き生きと語っています。

    [ 2015.04.19 ] 

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時4月16日(木) 18時~20時
    • 講師泉 惠機 氏(長浜教区清休寺・大谷大学客員教授)
    • 講題寺院・僧侶の社会的存在意義

    歎異抄の第12章から、ことに次の言葉に注目したい。
    「学問せば、いよいよ如来の御本意をしり、悲願の広大のむねをも存知して、いやしからん身にて往生はいかが、なんどとあやぶまんひとにも、本願には善悪浄穢なきおもむきをも、とききかせられそうらわばこそ、学生のかいにてもそうらわめ。・・・」(『真宗聖典』632頁)
    ここに述べられている言葉は、皇太子聖徳奉讃に
     久遠劫よりこの世まで
      あわれみましますしるしには
      仏智不思議につけしめて
      善悪浄穢もなかりけり(『真宗聖典』508頁)
    というお言葉とも重なり合っている。
     この「善悪浄穢なし」という、人間へのまなざしは、この時代に於いては特に驚くべき言葉であることを心に刻みたい。

    [ 2015.04.04 ] 

  • 3月の公開講座【終了】

    • 日時3月26日(木) 18時~20時
    • 講師伊藤 秀 氏(第15組興隆寺住職)
    • 講題よきひとのおおせ

    「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」とは松尾芭蕉が門弟に贈ったという有名な句です。それは「先人の歩まれ残された業績のみを追い求めず、その先人が求められた根本をこそ尋ねなさい」という意でありましょう。この言葉は、私にとって聞法する上で大事な戒めの言葉の一つであります。
    親鸞聖人は法然上人を「よきひと」と仰がれ、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とのおおせを大切にされました。その理由は、法然上人の智恵才覚や人格によるものでなく、法然上人という一人の人間が本願に出遇い念仏申すべき身となった生き様に触れたことで、親鸞聖人が自らが賜るべき「おおせ」を聞き得たからなのだと思います。
     唯円さまは耳の底にとどまる親鸞聖人のお言葉をお念仏のお仲間と自身の「おおせ」として『歎異抄』に綴られました。そのお言葉を頂くことで私達が尋ね、そして賜るべきところを考えてみたいと思います。

    [ 2015.02.23 ] 

  • 2月の公開講座【終了】

    • 日時2月26日(木) 18時~20時
    • 講師小泉 元瑞 氏(江別市 瑞雲寺住職)
    • 講題「歎異の内景」

    宗祖のお手紙には、「親鸞も偏頗あるものとききそうらえば・・・」と、わが身を偽らずに、告白された言葉があります。さらに、その教えをいただいた蓮如上人は、「たとい正義たりとも、しげからんことをば、停止すべき由候」、「仏法には、まいらせ心わろし」などと、自らの正義を主張し、固執することの問題性を指摘されています。それは他者の批判、そして排除に繋がるからでありましょう。
     「歎異」について廣瀬杲先生は、「言うならばお師匠さまに、ずいぶんご迷惑をかけました、という実感」であり、「歎異抄の作者自身が歎異された・・・切られた痛みを知らない人が過ちをただしていきますと、これは必ず冷酷な批判になる・・・だから歎異抄には涙がある」、と語られています。
     信心の異質化は、「ひとのこころをまどわすこと」(第11条)になり、後半の歎異篇を一貫する中身は「世間の欲心」(第18条)であると押えられ、結果、宗教の名において、人々を言い脅すことになると指摘されています。

    [ 2015.01.23 ] 

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時1月21日(水) 18時~20時
    • 講師松本 達也 氏(江別市 明勝寺住職)
    • 講題「異なっているのは誰か」

    「死にたくない」「死ぬのが怖い」。小学生高学年頃からでしょうか、私が持ち始めた感情です。にもかかわらず、坊さんになりたくない、寺を継ぐのは嫌だと言って逃げ回り、老病死を抱えた生を問題とし解決されたのがお釈迦さまであり、そのお釈迦さまの教えが仏教だと知ったのは、京都の大谷大学に身を置いた28歳の時でした。
     子どもの頃から引っかかっていたことに応えるものがあった。それは驚くべきことでした。
     それから諸先生方、諸先輩方に怒られ叱られながら、決して真面目にとは言えないながらも、仏教に学び、宗祖の教えに聞き、お念仏のはたらきから「出あえるはずもなかったことに出あえた。」としていました。
     しかしそこには、大変な誤りがあったのです。
     聞き、知り得たこと、そして出あえたことまでをも自分の内に取り込み、自分のものとしたところから「南無阿弥陀仏」は消えていました。
     唯円は「ただ念仏のみぞまことにておわします・・・、一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために・・・」と『歎異抄』を遺されました。
     「信心異なる」、異なっていることは何か、異なっているのは誰のことか、確かめたいと思います。

    [ 2014.12.25 ] 

  • 12月の公開講座(東本願寺会館報恩講)【終了】

    • 日時12月15日(月) 13時~15時30分
    • 講師月輪淳裕氏(第8組廣濟寺住職)
    • 講題「土」に還る=ゼロ

    縁起の法「私はかつて牛であり草であり大地であった」と聴かされた。
    経にも、浄土・国土・佛土など「土」とは、我々の帰る所であり、又、生まれ故郷。
    ムラキテルミという方の『地球に生きるあなたの使命』という本にこんな記述がありました。神話で神様が[土]をこねて、人間を作るシーンがあります。へんてこな話だと思いましたが、真実です。私達が口に入れる食物は、すべて[土]から作られています。
    植物はもちろんのこと、お肉だって、牛乳だって、その動物は、草食動物です。
    草は[土]のエネルギーです。[水]も元は[土]のエネルギーです。山に積もった葉っぱが[土]となり、雨でその[土]のエッセンスが泉となり、地下水となり川へと流れる。私達は[土]のエッセンスを食べ、生命を育んでいます。
    [土]は、「+」プラス+「-」マイナス=「ゼロ」をも表します。
    今年夏に一番ニュースで聞かされた言葉は、[想定外]それを生んだのは人間です。
    自分とは、自然の分身であることを忘れていませんか?
    我々の足元は、カチカチです。考え方も・・・これでいいのでしょうか?

    [ 2014.11.21 ] 

  • 11月の公開講座【終了】

    • 日時11月21日(金) 18時~20時
    • 講師波佐谷 宏昭 氏(第2組清浄寺住職)
    • 講題「仏を信じるということ」

    浄土真宗は「本願念仏の教え」でありますが、もうだいぶ前から「念仏の声が聞こえなくなった」ということがよく言われます。合理的・理性的なものの考え方をする現代に生きる私にとっても、阿弥陀仏の本願を信じ、声に出して仏の名を称えるということは長い間、違和感があり、僧侶という立場でありながら、なかなか「声に出して一緒にお念仏申しましょう」と堂々と勧めることが出来ないということがありました。そこには『無量寿経』や『阿弥陀経』などの経典を知的関心の対象として学んでいても、そこに説かれている教えを生きるということがないということなのでしょう。そのように、どこまでも自らの理性や知性を信頼し、仏の教えを疑う私たちでありますが、現に本願念仏を依り処にして生き抜かれた念仏者の脈々とした歴史があり、私に南無阿弥陀仏という名号が届けられています。そのことの意義を共々に尋ねることが出来ればと思います。

    [ 2014.10.17 ]