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公開講座

  • 3月の公開講座【終了】

    • 日時3月26日(木) 18時~20時
    • 講師伊藤 秀 氏(第15組興隆寺住職)
    • 講題よきひとのおおせ

    「古人の跡を求めず、古人の求めしところを求めよ」とは松尾芭蕉が門弟に贈ったという有名な句です。それは「先人の歩まれ残された業績のみを追い求めず、その先人が求められた根本をこそ尋ねなさい」という意でありましょう。この言葉は、私にとって聞法する上で大事な戒めの言葉の一つであります。
    親鸞聖人は法然上人を「よきひと」と仰がれ、「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とのおおせを大切にされました。その理由は、法然上人の智恵才覚や人格によるものでなく、法然上人という一人の人間が本願に出遇い念仏申すべき身となった生き様に触れたことで、親鸞聖人が自らが賜るべき「おおせ」を聞き得たからなのだと思います。
     唯円さまは耳の底にとどまる親鸞聖人のお言葉をお念仏のお仲間と自身の「おおせ」として『歎異抄』に綴られました。そのお言葉を頂くことで私達が尋ね、そして賜るべきところを考えてみたいと思います。

    [ 2015.02.23 ] 

  • 2月の公開講座【終了】

    • 日時2月26日(木) 18時~20時
    • 講師小泉 元瑞 氏(江別市 瑞雲寺住職)
    • 講題「歎異の内景」

    宗祖のお手紙には、「親鸞も偏頗あるものとききそうらえば・・・」と、わが身を偽らずに、告白された言葉があります。さらに、その教えをいただいた蓮如上人は、「たとい正義たりとも、しげからんことをば、停止すべき由候」、「仏法には、まいらせ心わろし」などと、自らの正義を主張し、固執することの問題性を指摘されています。それは他者の批判、そして排除に繋がるからでありましょう。
     「歎異」について廣瀬杲先生は、「言うならばお師匠さまに、ずいぶんご迷惑をかけました、という実感」であり、「歎異抄の作者自身が歎異された・・・切られた痛みを知らない人が過ちをただしていきますと、これは必ず冷酷な批判になる・・・だから歎異抄には涙がある」、と語られています。
     信心の異質化は、「ひとのこころをまどわすこと」(第11条)になり、後半の歎異篇を一貫する中身は「世間の欲心」(第18条)であると押えられ、結果、宗教の名において、人々を言い脅すことになると指摘されています。

    [ 2015.01.23 ] 

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時1月21日(水) 18時~20時
    • 講師松本 達也 氏(江別市 明勝寺住職)
    • 講題「異なっているのは誰か」

    「死にたくない」「死ぬのが怖い」。小学生高学年頃からでしょうか、私が持ち始めた感情です。にもかかわらず、坊さんになりたくない、寺を継ぐのは嫌だと言って逃げ回り、老病死を抱えた生を問題とし解決されたのがお釈迦さまであり、そのお釈迦さまの教えが仏教だと知ったのは、京都の大谷大学に身を置いた28歳の時でした。
     子どもの頃から引っかかっていたことに応えるものがあった。それは驚くべきことでした。
     それから諸先生方、諸先輩方に怒られ叱られながら、決して真面目にとは言えないながらも、仏教に学び、宗祖の教えに聞き、お念仏のはたらきから「出あえるはずもなかったことに出あえた。」としていました。
     しかしそこには、大変な誤りがあったのです。
     聞き、知り得たこと、そして出あえたことまでをも自分の内に取り込み、自分のものとしたところから「南無阿弥陀仏」は消えていました。
     唯円は「ただ念仏のみぞまことにておわします・・・、一室の行者のなかに、信心ことなることなからんために・・・」と『歎異抄』を遺されました。
     「信心異なる」、異なっていることは何か、異なっているのは誰のことか、確かめたいと思います。

    [ 2014.12.25 ] 

  • 12月の公開講座(東本願寺会館報恩講)【終了】

    • 日時12月15日(月) 13時~15時30分
    • 講師月輪淳裕氏(第8組廣濟寺住職)
    • 講題「土」に還る=ゼロ

    縁起の法「私はかつて牛であり草であり大地であった」と聴かされた。
    経にも、浄土・国土・佛土など「土」とは、我々の帰る所であり、又、生まれ故郷。
    ムラキテルミという方の『地球に生きるあなたの使命』という本にこんな記述がありました。神話で神様が[土]をこねて、人間を作るシーンがあります。へんてこな話だと思いましたが、真実です。私達が口に入れる食物は、すべて[土]から作られています。
    植物はもちろんのこと、お肉だって、牛乳だって、その動物は、草食動物です。
    草は[土]のエネルギーです。[水]も元は[土]のエネルギーです。山に積もった葉っぱが[土]となり、雨でその[土]のエッセンスが泉となり、地下水となり川へと流れる。私達は[土]のエッセンスを食べ、生命を育んでいます。
    [土]は、「+」プラス+「-」マイナス=「ゼロ」をも表します。
    今年夏に一番ニュースで聞かされた言葉は、[想定外]それを生んだのは人間です。
    自分とは、自然の分身であることを忘れていませんか?
    我々の足元は、カチカチです。考え方も・・・これでいいのでしょうか?

    [ 2014.11.21 ] 

  • 11月の公開講座【終了】

    • 日時11月21日(金) 18時~20時
    • 講師波佐谷 宏昭 氏(第2組清浄寺住職)
    • 講題「仏を信じるということ」

    浄土真宗は「本願念仏の教え」でありますが、もうだいぶ前から「念仏の声が聞こえなくなった」ということがよく言われます。合理的・理性的なものの考え方をする現代に生きる私にとっても、阿弥陀仏の本願を信じ、声に出して仏の名を称えるということは長い間、違和感があり、僧侶という立場でありながら、なかなか「声に出して一緒にお念仏申しましょう」と堂々と勧めることが出来ないということがありました。そこには『無量寿経』や『阿弥陀経』などの経典を知的関心の対象として学んでいても、そこに説かれている教えを生きるということがないということなのでしょう。そのように、どこまでも自らの理性や知性を信頼し、仏の教えを疑う私たちでありますが、現に本願念仏を依り処にして生き抜かれた念仏者の脈々とした歴史があり、私に南無阿弥陀仏という名号が届けられています。そのことの意義を共々に尋ねることが出来ればと思います。

    [ 2014.10.17 ] 

  • 10月の公開講座【終了】

    • 日時10月20日(月) 18時~20時
    • 講師巖城 孝明 氏(第4組専修寺住職)
    • 講題「声の仏さま」

    「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第2章)という言葉がある。
    京都に居られる親鸞聖人が、命がけで訪ねてきた関東の同行に語った言葉だ。
     真宗の教えは「ただ念仏」の教えである。「念仏とはなんですか?」と問えば、現代でも多く人が「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・・・・」と自らの口で発語することだということを知っている。
     今から3年前、2011年に真宗本廟で750回御遠忌が厳修された。もうすでに、お浄土に還帰された多くの諸先輩から、その法要にお参りすることを勧められた。
     なぜなら、1961年の700回御遠忌の念仏は、大地から湧き起こるような響きがあったという。全国から集う同朋の念仏の中に身を置き、その名もなき念仏者の、それぞれの口から発語される潮騒の念仏を、この身で聞くことが御遠忌の意味なのだと。
     ところが近年、私たち真宗門徒にとって、もっとも大切な「声の念仏」が聞こえない。なぜ、生活の中で念仏を発語することが見失われてしまったのか。

    [ 2014.09.17 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時9月19日(金) 18時~20時
    • 講師鍵主 良敬 氏(第19組聖光寺住職)
    • 講題「他力の悲願は―かくのごときのわれらがためなりけり―」

    父の遺品の中に、戦後間もなく出版されたザラ半紙の『歎異抄聴記』がありました。
     何度か読破を試みたのですが、その都度挫折しました。何を言っておられるのか解らなかったのです。『歎異抄』を読む視点が欠けていたからです。
     この度、曽我先生の原点とも言われることのある『本願の仏地』にご縁をいただきました。その中の「地獄一定助かるまじき者だといふこと(機の深信)が原因となって、助かるということ即ち法の深信の結果を成就する」との示唆に出会うことによって、それが二種深信の問題であることに気づかされたのです。『歎異抄聴記』では「機の深信の外に法の深信なし」と言われています。
     では、それはどういうことなのか。助ける如来はどうなるのか。助かりようのない私がいるだけなのか。
     絶望的ともいえる、どういようもないお手上げ状態の自分を認めることが、「助かる」「原因」になるというのでしょうか。
     遅ればせながらですが、その意味が少し解りましたので、その点についてお話します。

    [ 2014.08.22 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月20日(水) 18時~20時
    • 講師圓浄 貴之 氏(第11組澄心寺住職)
    • 講題「出離の縁あることなき身」

    現実社会には存在していない理想の自分・社会をどこまでも追い求め、疲れ果てることで虚しさを埋めようとしている今日があるように感じます。私が堂々と頭を挙げて生きていけるような場所がどこかにあるはずという期待から離れられないのです。
     『歎異抄』後序によれば、宗祖は、弥陀をして五劫もの間思惟させていたのは自分自身であったと本願を思案する中で見出されました。どこまでも善人になることを仏道に求めていく者に、罪福を信じることが本願を疑惑する重罪であることを気付かせ、そこに悔いる心が起こるならそこからまた仏智の不思議をたのめと促されています。(疑惑罪過讃23首目)
    天親讃には「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」と述べられますが、本願力に遇うことは私の欲心を満足させることではないのでしょう。「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」といわれる仏とは南無阿弥陀仏であります。私をして念仏申せと命じ、南無阿弥陀仏にまで成ることを願っておられるのが五劫思惟の願でありました。南無阿弥陀仏に成って往く人生をむなしいとしか感じられない、この私をあわれみ慈しんでおられるのだという唯円坊の指摘から学ばせていただきたいと思います。

    [ 2014.07.26 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時7月15日(火) 18時~20時
    • 講師中岡 明秀 氏(第5組敬德寺住職)
    • 講題念仏の生活者

    -南無なき聞法は歌を忘れたカナリヤである-

     かつて、念仏の教えに触れた時、 大きな感動があった。やがて、感動が薄れてきたのである。そこに、一つの疑義が生じてきた。

    如来の誓われた念仏と私の称える念仏は、同じなのであろうか?普通なら、念仏の効能を疑うでしょう。念仏の信心とは、念仏によって大きな感動を獲たと云う処に立って、自分自身を問うのです。問うべき処は身の底に留める所なのです。

    念仏は行者のために、非行非善なり。無意識の内に、念仏を自分のものにしていたと云う深い頷きがあるのでしよう。深い頷きとは、自分に興るはずもない心が自分の内に興ってきた、と云う驚きでしょう。そのこころは、長い間(時間ではない)仏願に背いてきたと云う自分への悲歎、そんな私を見捨てる事なく呼び続けて丁さっている仏への謝念があるのでしよう。

    念仏の生活者とは、南無する世界をもっている。 南無なき聞法は歌を忘れたカナリヤである。

    [ 2014.06.13 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時6月9日(月) 18時~20時
    • 講師小川 一乗 氏(真宗大谷派講師・大谷大学名誉教授・第19組西照寺住職)
    • 講題「念仏成仏」という仏道

    親鸞聖人の真宗が、「念仏成仏」の教えであることを聞いたことがありますか。「成仏」(仏と成る) への切望なくして念仏を称えていませんか。

     仏教は、釈尊の等正覚 (お覚り)に同意して「仏と成る」教えです。人間だけが生老病死に苦悩していますが、どうしてでしょうか。自分の思い通りに生きたいという自我が人間に根付いているからです。釈尊は、その自を克服するために、自我を基本として 「私が我生きている」と思い込んでいても、実際には、ご縁のままに 「生かされている私」であるという「いのち」の在り方を発見され、自我から解放されて「仏と成った」のです。

     あなたは「生かされている私」であるという「いのち」の在り方に同意しますか。同意できたら仏教徒です。しかし、仏教徒となっても、相変わらず「私が生きている」という自我に束縛され苦悩していませんか。どうしたらよいのでしょうか。

     ご一緒に聞思しましょう。

    [ 2014.06.01 ]