親鸞Web | 真宗大谷派 北海道教区 教化本部のホームページ

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公開講座

  • 10月の公開講座【終了】

    • 日時10月20日(月) 18時~20時
    • 講師巖城 孝明 氏(第4組専修寺住職)
    • 講題「声の仏さま」

    「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第2章)という言葉がある。
    京都に居られる親鸞聖人が、命がけで訪ねてきた関東の同行に語った言葉だ。
     真宗の教えは「ただ念仏」の教えである。「念仏とはなんですか?」と問えば、現代でも多く人が「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ・・・・・・」と自らの口で発語することだということを知っている。
     今から3年前、2011年に真宗本廟で750回御遠忌が厳修された。もうすでに、お浄土に還帰された多くの諸先輩から、その法要にお参りすることを勧められた。
     なぜなら、1961年の700回御遠忌の念仏は、大地から湧き起こるような響きがあったという。全国から集う同朋の念仏の中に身を置き、その名もなき念仏者の、それぞれの口から発語される潮騒の念仏を、この身で聞くことが御遠忌の意味なのだと。
     ところが近年、私たち真宗門徒にとって、もっとも大切な「声の念仏」が聞こえない。なぜ、生活の中で念仏を発語することが見失われてしまったのか。

    [ 2014.09.17 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時9月19日(金) 18時~20時
    • 講師鍵主 良敬 氏(第19組聖光寺住職)
    • 講題「他力の悲願は―かくのごときのわれらがためなりけり―」

    父の遺品の中に、戦後間もなく出版されたザラ半紙の『歎異抄聴記』がありました。
     何度か読破を試みたのですが、その都度挫折しました。何を言っておられるのか解らなかったのです。『歎異抄』を読む視点が欠けていたからです。
     この度、曽我先生の原点とも言われることのある『本願の仏地』にご縁をいただきました。その中の「地獄一定助かるまじき者だといふこと(機の深信)が原因となって、助かるということ即ち法の深信の結果を成就する」との示唆に出会うことによって、それが二種深信の問題であることに気づかされたのです。『歎異抄聴記』では「機の深信の外に法の深信なし」と言われています。
     では、それはどういうことなのか。助ける如来はどうなるのか。助かりようのない私がいるだけなのか。
     絶望的ともいえる、どういようもないお手上げ状態の自分を認めることが、「助かる」「原因」になるというのでしょうか。
     遅ればせながらですが、その意味が少し解りましたので、その点についてお話します。

    [ 2014.08.22 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月20日(水) 18時~20時
    • 講師圓浄 貴之 氏(第11組澄心寺住職)
    • 講題「出離の縁あることなき身」

    現実社会には存在していない理想の自分・社会をどこまでも追い求め、疲れ果てることで虚しさを埋めようとしている今日があるように感じます。私が堂々と頭を挙げて生きていけるような場所がどこかにあるはずという期待から離れられないのです。
     『歎異抄』後序によれば、宗祖は、弥陀をして五劫もの間思惟させていたのは自分自身であったと本願を思案する中で見出されました。どこまでも善人になることを仏道に求めていく者に、罪福を信じることが本願を疑惑する重罪であることを気付かせ、そこに悔いる心が起こるならそこからまた仏智の不思議をたのめと促されています。(疑惑罪過讃23首目)
    天親讃には「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」と述べられますが、本願力に遇うことは私の欲心を満足させることではないのでしょう。「本願を信じ、念仏をもうさば仏になる」といわれる仏とは南無阿弥陀仏であります。私をして念仏申せと命じ、南無阿弥陀仏にまで成ることを願っておられるのが五劫思惟の願でありました。南無阿弥陀仏に成って往く人生をむなしいとしか感じられない、この私をあわれみ慈しんでおられるのだという唯円坊の指摘から学ばせていただきたいと思います。

    [ 2014.07.26 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時7月15日(火) 18時~20時
    • 講師中岡 明秀 氏(第5組敬德寺住職)
    • 講題念仏の生活者

    -南無なき聞法は歌を忘れたカナリヤである-

     かつて、念仏の教えに触れた時、 大きな感動があった。やがて、感動が薄れてきたのである。そこに、一つの疑義が生じてきた。

    如来の誓われた念仏と私の称える念仏は、同じなのであろうか?普通なら、念仏の効能を疑うでしょう。念仏の信心とは、念仏によって大きな感動を獲たと云う処に立って、自分自身を問うのです。問うべき処は身の底に留める所なのです。

    念仏は行者のために、非行非善なり。無意識の内に、念仏を自分のものにしていたと云う深い頷きがあるのでしよう。深い頷きとは、自分に興るはずもない心が自分の内に興ってきた、と云う驚きでしょう。そのこころは、長い間(時間ではない)仏願に背いてきたと云う自分への悲歎、そんな私を見捨てる事なく呼び続けて丁さっている仏への謝念があるのでしよう。

    念仏の生活者とは、南無する世界をもっている。 南無なき聞法は歌を忘れたカナリヤである。

    [ 2014.06.13 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時6月9日(月) 18時~20時
    • 講師小川 一乗 氏(真宗大谷派講師・大谷大学名誉教授・第19組西照寺住職)
    • 講題「念仏成仏」という仏道

    親鸞聖人の真宗が、「念仏成仏」の教えであることを聞いたことがありますか。「成仏」(仏と成る) への切望なくして念仏を称えていませんか。

     仏教は、釈尊の等正覚 (お覚り)に同意して「仏と成る」教えです。人間だけが生老病死に苦悩していますが、どうしてでしょうか。自分の思い通りに生きたいという自我が人間に根付いているからです。釈尊は、その自を克服するために、自我を基本として 「私が我生きている」と思い込んでいても、実際には、ご縁のままに 「生かされている私」であるという「いのち」の在り方を発見され、自我から解放されて「仏と成った」のです。

     あなたは「生かされている私」であるという「いのち」の在り方に同意しますか。同意できたら仏教徒です。しかし、仏教徒となっても、相変わらず「私が生きている」という自我に束縛され苦悩していませんか。どうしたらよいのでしょうか。

     ご一緒に聞思しましょう。

    [ 2014.06.01 ] 

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時5月23日(金) 18時~20時
    • 講師谷本 忍 氏(静岡別院輪番)
    • 講題悲しみから喜びへ

    真宗教団において、まことの信心に異なることを歎き悲しみ、私たちが念仏申し、信心を受け継いでいくときにおこる疑いや惑いに応えるために書かれたのが、『歎異抄』でありましょう。

     この『歎異抄』は、「念仏」という言葉で貫かれていますが、称名念仏である南無阿弥陀仏は、悲しみと喜びを内に秘め外に表現しています。東日本大震災・原発事故から3年余り経ちました。現地では放射能で、地域社会、家族、友人関係などが「分断」され、復興の出発点にすらたてないと言われています。今こそ、その「分断」状況に寄り添う悲しみと喜びが求められているようです。

     まとまりのあるものが分断されていく、生と死が分断されていく、念仏を申しても、喜びの心がわかない。その心に寄り添う悲しみ、喜びはどうすれば回復できるのか。

     第9章で「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と、唯円房の心に寄り添い、親鸞は語り始めました。

    [ 2014.04.17 ] 

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時4月15日(火) 18時~20時
    • 講師延塚 知道 氏(大谷大学特任教授)
    • 講題『歎異抄』に聞く

    合理性や有効性を追い求めている世の中の見方からすれば、念仏なんて何の役にも立たないというのが、ほとんどの人の見方でしょう。仏教の話を聞くくらいなら、お金儲けをした方が良いのですから。若者の仏教離れの理由はその辺にあると思われます。確かに念仏は、われわれの生活には何の役にも立ちません。 しかし、寂しくて、うつろで、不安で、夢のように終わっていく人生に、確かに自分らしく生きたという絶対満足の目覚めをもたらす教え、それが念仏です。人間は、豊かで、便利で、快適な合理性などを求めているのではありません。私が私で良かったと心から言えること、そこに、全ての人の絶対満足の世界があるのです。それを親鸞聖人の『歎異抄』に聞いていきましょう。

    [ 2014.03.29 ] 

  • 3月の公開講座【終了】

    • 日時3月24日(月) 18時~20時
    • 講師高橋 法信 氏(大阪市 光徳寺住職)
    • 講題日ごろのこころ

    自坊の掲示板に「聞くことの難しさと大切さ」というテーマをつけて、内容を「人間の愚かさは、何事に対しても答えを持っているという事です」と書いてみた。すると、「この文章はおかしい」と何人かの人が注意をしにこられた。「答えを持つと思考停止になるのでは? 持った答えに縛られるのでは?」と聞き直してみたら、「そんなことはない」と言い残して帰られた。
     部落差別・在日朝鮮人差別・人種差別・民族差別・性差別・公害差別と、今現在を生きる我々が抱えている問題はきりがない。しかし、自分の出した答えに執着し、聞く耳を持とうとしない私たちのあり方がこれらの問題を生み出すのであり、それが「人間の闇」なのだろう。
     仏教は人生を業(宿業)という言葉で語られる。しかし、病気になることは業ではない。被差別部落に生まれたことも、女性に生まれたことも、「前世の業のしわざ」という使い方は間違いだ。
     宿業の宿とは歴史と社会を宿しているという事。我々が宿業の身である自分の体質を問うこともなく、決めつけて生きるあり方を「日ごろのこころ」というのだと思う。

    [ 2014.02.11 ] 

  • 2月の公開講座【終了】

    • 日時2月4日(火) 18時~20時
    • 講師畠山 明光 氏(湧別町 真宗寺住職)
    • 講題善人とは 悪人とは

    善人とは誰のことか。悪人とは誰をさすのか。
     今、私共が求めている生きざまは、社会に役に立つ人間になろうとして、善人を求めて生きているのではないか。しかし、善人とは自己の分別心を根におき、善し悪しを決め、善き人となるものを求め、悪しきものを嫌い捨てる。その基準は、自己分別の善し悪しの生き方ではないか。
     そのことを聖人は「自力作善のひと」と言われた。「自力作善のひと」は自己の中にも悪しきものを見い出し、嫌い厭おうとするばかりでなく、他の人々の中にも自己分別心をもって善き人悪しき人をつくり出す。その自己中心の分別心を破るものこそ念仏成仏の道なのではないか。
     歎異抄第三章を中心として考えてみたい。

    [ 2014.02.01 ] 

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時1月17日(金) 18時~20時
    • 講師金石 晃陽 氏(蘭越町 光福寺住職)
    • 講題「自然のことわり」

    今回の講題の「自然のことわり」は、『歎異抄』の「第6章」と「第16章」に出てくる言葉です。特に「第16章」には、「自然」という言葉が、計5回も出てきます。

     この『歎異抄』に書き記されているのは、最晩年の宗祖の言葉です。同じ最晩年の宗祖の著作である『自然法爾章』・『尊号真像銘文』・『一念多念文意』・『唯信鈔文意』・『末灯鈔』にも、この「自然」という言葉が数多く用いられています。

     私には、「二回向四法」といわれる宗祖の教学が、その最晩年には、「自然」という言葉に昇華されていくようにも思われます。

     今回は、「無為自然」「業道自然」「願力自然」の三つ自然をキーポイントとして、宗祖のお心を尋ねさせて頂き、それによって、大乗仏道の原理である「真如はこれ諸法の正躰なり」(『論註』下巻)の内容を確かめたいと思っています。

    [ 2013.12.29 ]