親鸞Web | 真宗大谷派 北海道教区 教化本部のホームページ

HOME公開講座

公開講座

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時7月15日(火) 18時~20時
    • 講師中岡 明秀 氏(第5組敬德寺住職)
    • 講題念仏の生活者

    -南無なき聞法は歌を忘れたカナリヤである-

     かつて、念仏の教えに触れた時、 大きな感動があった。やがて、感動が薄れてきたのである。そこに、一つの疑義が生じてきた。

    如来の誓われた念仏と私の称える念仏は、同じなのであろうか?普通なら、念仏の効能を疑うでしょう。念仏の信心とは、念仏によって大きな感動を獲たと云う処に立って、自分自身を問うのです。問うべき処は身の底に留める所なのです。

    念仏は行者のために、非行非善なり。無意識の内に、念仏を自分のものにしていたと云う深い頷きがあるのでしよう。深い頷きとは、自分に興るはずもない心が自分の内に興ってきた、と云う驚きでしょう。そのこころは、長い間(時間ではない)仏願に背いてきたと云う自分への悲歎、そんな私を見捨てる事なく呼び続けて丁さっている仏への謝念があるのでしよう。

    念仏の生活者とは、南無する世界をもっている。 南無なき聞法は歌を忘れたカナリヤである。

    [ 2014.06.13 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時6月9日(月) 18時~20時
    • 講師小川 一乗 氏(真宗大谷派講師・大谷大学名誉教授・第19組西照寺住職)
    • 講題「念仏成仏」という仏道

    親鸞聖人の真宗が、「念仏成仏」の教えであることを聞いたことがありますか。「成仏」(仏と成る) への切望なくして念仏を称えていませんか。

     仏教は、釈尊の等正覚 (お覚り)に同意して「仏と成る」教えです。人間だけが生老病死に苦悩していますが、どうしてでしょうか。自分の思い通りに生きたいという自我が人間に根付いているからです。釈尊は、その自を克服するために、自我を基本として 「私が我生きている」と思い込んでいても、実際には、ご縁のままに 「生かされている私」であるという「いのち」の在り方を発見され、自我から解放されて「仏と成った」のです。

     あなたは「生かされている私」であるという「いのち」の在り方に同意しますか。同意できたら仏教徒です。しかし、仏教徒となっても、相変わらず「私が生きている」という自我に束縛され苦悩していませんか。どうしたらよいのでしょうか。

     ご一緒に聞思しましょう。

    [ 2014.06.01 ] 

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時5月23日(金) 18時~20時
    • 講師谷本 忍 氏(静岡別院輪番)
    • 講題悲しみから喜びへ

    真宗教団において、まことの信心に異なることを歎き悲しみ、私たちが念仏申し、信心を受け継いでいくときにおこる疑いや惑いに応えるために書かれたのが、『歎異抄』でありましょう。

     この『歎異抄』は、「念仏」という言葉で貫かれていますが、称名念仏である南無阿弥陀仏は、悲しみと喜びを内に秘め外に表現しています。東日本大震災・原発事故から3年余り経ちました。現地では放射能で、地域社会、家族、友人関係などが「分断」され、復興の出発点にすらたてないと言われています。今こそ、その「分断」状況に寄り添う悲しみと喜びが求められているようです。

     まとまりのあるものが分断されていく、生と死が分断されていく、念仏を申しても、喜びの心がわかない。その心に寄り添う悲しみ、喜びはどうすれば回復できるのか。

     第9章で「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と、唯円房の心に寄り添い、親鸞は語り始めました。

    [ 2014.04.17 ] 

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時4月15日(火) 18時~20時
    • 講師延塚 知道 氏(大谷大学特任教授)
    • 講題『歎異抄』に聞く

    合理性や有効性を追い求めている世の中の見方からすれば、念仏なんて何の役にも立たないというのが、ほとんどの人の見方でしょう。仏教の話を聞くくらいなら、お金儲けをした方が良いのですから。若者の仏教離れの理由はその辺にあると思われます。確かに念仏は、われわれの生活には何の役にも立ちません。 しかし、寂しくて、うつろで、不安で、夢のように終わっていく人生に、確かに自分らしく生きたという絶対満足の目覚めをもたらす教え、それが念仏です。人間は、豊かで、便利で、快適な合理性などを求めているのではありません。私が私で良かったと心から言えること、そこに、全ての人の絶対満足の世界があるのです。それを親鸞聖人の『歎異抄』に聞いていきましょう。

    [ 2014.03.29 ] 

  • 3月の公開講座【終了】

    • 日時3月24日(月) 18時~20時
    • 講師高橋 法信 氏(大阪市 光徳寺住職)
    • 講題日ごろのこころ

    自坊の掲示板に「聞くことの難しさと大切さ」というテーマをつけて、内容を「人間の愚かさは、何事に対しても答えを持っているという事です」と書いてみた。すると、「この文章はおかしい」と何人かの人が注意をしにこられた。「答えを持つと思考停止になるのでは? 持った答えに縛られるのでは?」と聞き直してみたら、「そんなことはない」と言い残して帰られた。
     部落差別・在日朝鮮人差別・人種差別・民族差別・性差別・公害差別と、今現在を生きる我々が抱えている問題はきりがない。しかし、自分の出した答えに執着し、聞く耳を持とうとしない私たちのあり方がこれらの問題を生み出すのであり、それが「人間の闇」なのだろう。
     仏教は人生を業(宿業)という言葉で語られる。しかし、病気になることは業ではない。被差別部落に生まれたことも、女性に生まれたことも、「前世の業のしわざ」という使い方は間違いだ。
     宿業の宿とは歴史と社会を宿しているという事。我々が宿業の身である自分の体質を問うこともなく、決めつけて生きるあり方を「日ごろのこころ」というのだと思う。

    [ 2014.02.11 ] 

  • 2月の公開講座【終了】

    • 日時2月4日(火) 18時~20時
    • 講師畠山 明光 氏(湧別町 真宗寺住職)
    • 講題善人とは 悪人とは

    善人とは誰のことか。悪人とは誰をさすのか。
     今、私共が求めている生きざまは、社会に役に立つ人間になろうとして、善人を求めて生きているのではないか。しかし、善人とは自己の分別心を根におき、善し悪しを決め、善き人となるものを求め、悪しきものを嫌い捨てる。その基準は、自己分別の善し悪しの生き方ではないか。
     そのことを聖人は「自力作善のひと」と言われた。「自力作善のひと」は自己の中にも悪しきものを見い出し、嫌い厭おうとするばかりでなく、他の人々の中にも自己分別心をもって善き人悪しき人をつくり出す。その自己中心の分別心を破るものこそ念仏成仏の道なのではないか。
     歎異抄第三章を中心として考えてみたい。

    [ 2014.02.01 ] 

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時1月17日(金) 18時~20時
    • 講師金石 晃陽 氏(蘭越町 光福寺住職)
    • 講題「自然のことわり」

    今回の講題の「自然のことわり」は、『歎異抄』の「第6章」と「第16章」に出てくる言葉です。特に「第16章」には、「自然」という言葉が、計5回も出てきます。

     この『歎異抄』に書き記されているのは、最晩年の宗祖の言葉です。同じ最晩年の宗祖の著作である『自然法爾章』・『尊号真像銘文』・『一念多念文意』・『唯信鈔文意』・『末灯鈔』にも、この「自然」という言葉が数多く用いられています。

     私には、「二回向四法」といわれる宗祖の教学が、その最晩年には、「自然」という言葉に昇華されていくようにも思われます。

     今回は、「無為自然」「業道自然」「願力自然」の三つ自然をキーポイントとして、宗祖のお心を尋ねさせて頂き、それによって、大乗仏道の原理である「真如はこれ諸法の正躰なり」(『論註』下巻)の内容を確かめたいと思っています。

    [ 2013.12.29 ] 

  • 12月の公開講座(東本願寺会館報恩講)【終了】

    • 日時12月18日(水) 13時~15時30分
    • 講師黒萩 昌 氏(蘭越町 法誓寺住職)
    • 講題「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

    去る7月、広島県呉市で16歳の少女の遺体が発見されました。そしてまもなく、16~21歳の男女7名が死体遺棄、強盗殺人、監禁、窃盗の容疑で逮捕・送検されました。

     男女7名は車の中で、被害者少女に暴行を加え、「このまま帰したら警察に訴えられる。帰すわけにはいかない」と、車外でさらに暴行を加え、最後は少女の所持していた現金やキャッシュカードを強奪した上、首を絞めて殺害してしまいました。

     人間はひとたび歯止めがきかなくなった時、ここまで行き着くものなのかと暗く重いものを感じた事件でありました。

     この少年少女たちに、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という罪業深き人間のあやうさを教える大人が、一人でもそばに居たならば、結果は随分違っていたのではないかとも思います。

     私たち真宗門徒は、この事件から何を問われているのでしょうか。『歎異抄』第十三章にたずねてまいりたいと思います。

    [ 2013.12.03 ] 

  • 11月の公開講座【終了】

    • 日時11月14日(木) 18時~20時
    • 講師義盛 幸規 氏(中標津町 法薗寺住職)
    • 講題「親鸞聖人像の再構築―『歎異抄』と『口伝鈔』を通して―」

    親鸞聖人の門弟・唯円大徳がしたためたとされる『歎異抄』と、親鸞聖人の曾孫・覚如上人が製作した『口伝鈔』。それぞれ親鸞聖人のお姿を表現した言行録ですが、そこに描かれた親鸞聖人像は同じものではありません。公開講座ではその理由をたずねてみたいと思います。その為に、
    (1)現代と鎌倉時代の距離感
    (2)唯円大徳と覚如上人
    (3)『歎異抄』と『口伝鈔』それぞれの撰述の意図
    を確かめます。その上で、現代を生きる私たちが想像すべき親鸞聖人のお姿を考えましょう。
     果たして、そこに表現される親鸞聖人は、現代を生き北海道に暮らす私たちにどのような言葉をかけてくださるのでしょうか。

    [ 2013.11.01 ] 

  • 10月の公開講座

    • 日時10月24日(木) 18時~20時
    • 講師浅野俊道氏(新十津川町樹教寺住職)
    • 講題「往生浄土の道」 ― 世を超えて世に生きる ―

    宗祖親鸞聖人が自らの求道を通して開顕された仏道は「浄土往生の道」であった。
     すなわち、私ども人間界にあって浄土の世界(仏の世界)からの呼びかけに応答し浄土のいのちを根拠として生きる。そのことが人間の自覚(めざめ)に通じる道であると教えて下さったのである。
     浄土とは清浄の国土という意味であるが、天親菩薩の書かれた『浄土論』には、その徳を清浄功徳と表されている。
     そしてその文には

      観彼世界相 勝過三界道
      (彼の世界の相を観ずるに 三界の道に勝過せり)

    と述べられ、浄土の徳相を観ることにおいてはじめて三界が流転の世界であることを知ることができる。三界とは欲界、色界、無色界を言い、人間が経験する経験領域の全体を指す言葉である。しかし、これら三界の相は、すべて生死流転の世界であり、そのことを本当に知らしめてくれる用きこそ浄土と宗祖は教示せられたのである。

    [ 2013.09.30 ]