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公開講座

  • 12月の公開講座(東本願寺会館報恩講)【終了】

    • 日時12月18日(水) 13時~15時30分
    • 講師黒萩 昌 氏(蘭越町 法誓寺住職)
    • 講題「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

    去る7月、広島県呉市で16歳の少女の遺体が発見されました。そしてまもなく、16~21歳の男女7名が死体遺棄、強盗殺人、監禁、窃盗の容疑で逮捕・送検されました。

     男女7名は車の中で、被害者少女に暴行を加え、「このまま帰したら警察に訴えられる。帰すわけにはいかない」と、車外でさらに暴行を加え、最後は少女の所持していた現金やキャッシュカードを強奪した上、首を絞めて殺害してしまいました。

     人間はひとたび歯止めがきかなくなった時、ここまで行き着くものなのかと暗く重いものを感じた事件でありました。

     この少年少女たちに、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という罪業深き人間のあやうさを教える大人が、一人でもそばに居たならば、結果は随分違っていたのではないかとも思います。

     私たち真宗門徒は、この事件から何を問われているのでしょうか。『歎異抄』第十三章にたずねてまいりたいと思います。

    [ 2013.12.03 ] 

  • 11月の公開講座【終了】

    • 日時11月14日(木) 18時~20時
    • 講師義盛 幸規 氏(中標津町 法薗寺住職)
    • 講題「親鸞聖人像の再構築―『歎異抄』と『口伝鈔』を通して―」

    親鸞聖人の門弟・唯円大徳がしたためたとされる『歎異抄』と、親鸞聖人の曾孫・覚如上人が製作した『口伝鈔』。それぞれ親鸞聖人のお姿を表現した言行録ですが、そこに描かれた親鸞聖人像は同じものではありません。公開講座ではその理由をたずねてみたいと思います。その為に、
    (1)現代と鎌倉時代の距離感
    (2)唯円大徳と覚如上人
    (3)『歎異抄』と『口伝鈔』それぞれの撰述の意図
    を確かめます。その上で、現代を生きる私たちが想像すべき親鸞聖人のお姿を考えましょう。
     果たして、そこに表現される親鸞聖人は、現代を生き北海道に暮らす私たちにどのような言葉をかけてくださるのでしょうか。

    [ 2013.11.01 ] 

  • 10月の公開講座

    • 日時10月24日(木) 18時~20時
    • 講師浅野俊道氏(新十津川町樹教寺住職)
    • 講題「往生浄土の道」 ― 世を超えて世に生きる ―

    宗祖親鸞聖人が自らの求道を通して開顕された仏道は「浄土往生の道」であった。
     すなわち、私ども人間界にあって浄土の世界(仏の世界)からの呼びかけに応答し浄土のいのちを根拠として生きる。そのことが人間の自覚(めざめ)に通じる道であると教えて下さったのである。
     浄土とは清浄の国土という意味であるが、天親菩薩の書かれた『浄土論』には、その徳を清浄功徳と表されている。
     そしてその文には

      観彼世界相 勝過三界道
      (彼の世界の相を観ずるに 三界の道に勝過せり)

    と述べられ、浄土の徳相を観ることにおいてはじめて三界が流転の世界であることを知ることができる。三界とは欲界、色界、無色界を言い、人間が経験する経験領域の全体を指す言葉である。しかし、これら三界の相は、すべて生死流転の世界であり、そのことを本当に知らしめてくれる用きこそ浄土と宗祖は教示せられたのである。

    [ 2013.09.30 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時9月25日(水) 18時~20時
    • 講師高瀬法輪氏(北広島市無礙光寺前住職)
    • 講題歎異抄の「さとり」と二種回向

    ・来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定のみちゆえなり。
    ・戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の 苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲 はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍 の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さと りにてはそうらへ。
    ・金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂 護して ながく生死をへだてける
    ・浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをば ひらくとならひそうろうぞ
    (歎異抄第十五条より抜粋)

    『歎異抄』第十五条は、親鸞聖人の二種回向のご了解を、弟子である唯円もまた明確にいただいていることを窺い知る事ができる大切な章です。一般的に「異義編」が読まれることは「師訓編」よりも少ないのですが、この機会に第十五条の原文にふれ、また声に出して読んでいただければと願っております。

    [ 2013.08.07 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月5日(月) 18時~20時
    • 講師澤田秀丸氏(旭川別院輪番)
    • 講題「念仏とは」

    『歎異抄』を貫いている精神は、言うまでもなく「念仏」であります。
     とくに第二章で念仏の信心が説かれているのを中心に、41回にわたって「念仏」が記述されていることからも知見することができます。
     ただ「南無阿弥陀仏」の文言は一箇所も見ることはありませんが、「称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり、正業はこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なり」(『教行信証・行巻』P161)と念仏は南無阿弥陀仏であると教示されています。
     そして念仏は、「唱」名(名を声に出して読み上げる)ではなく、「称」名(仏名に適応する)念仏で「能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたもう。」(同)仏のはたらきであります。
     私たちの無明を破し、志願を満てる南無阿弥陀仏とは、如何なるはたらきでしょうか。

    [ 2013.07.25 ] 

  • 7月の公開講座【終了】

    • 日時7月18日(木) 18時~20時
    • 講師古田和弘氏(大谷大学名誉教授・九州大谷短期大学名誉学長)
    • 講題「如実の言(みこと)を信ずる」

    私たちは、現代の社会において、それなりの豊かさと便利さを享受しています。
     しかし、その一方で、何とも言い知れない不安や不満を感じてもいます。
     目まぐるしい社会の動きの中で、私の人生にとって「畢竟依」(最後のよりどころ)は何であるのか、それが見えなくなっているのではないでしょうか。
     否応なしに、このような状況を生きなければならない私たちに対して、親鸞聖人は、どのようなことを教えておられるのか、人生の真実とはいったい何なのか、この機会にそのみ教えを確かめてみたいと思います。

    [ 2013.07.01 ] 

  • 6月の公開講座【終了】

    • 日時6月24日(月) 18時~20時
    • 講師白山敏秀氏(石狩市 生振寺住職)
    • 講題歎き

    私の生まれた寺の門徒の古老達は、幼き「人は何で生まれてくるの」という問い掛けに、「おれらがこの世に生まれたのは仏様になるためだ」と、自愛あふれる眼差しで私を育ててくれた。決してめずらしい言葉ではなかったが、私はその言葉を踏みつけにしてここまでいたずらに歳を重ねた。その願いとは異なった願いを主(あるじ)として魔境に身を置き続けたのだ。
     曽我先生はその著『歎異抄聴記』の中で「異なるのは自分である」と言い切られた。異なるとは信心のまこととは異質だということである。違うということなら努力も実を結ぶかもしれないが、異質という次元の違いは何ともしようのない絶望を表す。私は曽我先生のこの「自分」になり得ているか。その事実を歎く賜りたる信心の誕生こそが仏道である。信心同一の座で異質を指摘された法然の弟子達は歎き得ただろうか。私は歎き得ているだろうか。

    [ 2013.06.05 ] 

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時5月22日(水) 18時~20時
    • 講師酒井 義一 氏(東京教区存明寺)
    • 講題音楽が流れている

    ―歌を聴きながら、親鸞の世界へ―

    時代社会には、大きな闇が覆っているかのようです。
    人間は、苦しみや悲しみをいっぱい抱えているようです。
    大震災や原発やこの世の現実から、私たちの日常が問われ続けています。
    何が問われているのかを、自分の言葉で表現してみたいと思います。

    人間の住む街には、音楽が流れています。
    音楽には、人を目覚まし、歩き出させる力があるといいます。
    私のすがたを照らし出すような音楽には、あたたかさがあります。
    私の出会った素敵な音楽を、ご一緒に聞いてみたいと思います。

    仏教讃歌、御遠忌テーマソング、最近のお気に入りの音楽…。
    ところどころ音楽を交えながら、お話をしてみます。
    題して、「音楽法話」。もちろんうまくいく自信はありませんが、そんな試みを通して、親鸞の世界を旅してみたいと思っています。

       

    [ 2013.05.02 ] 

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時4月22日(月) 18時~20時
    • 講師四衢 亮 氏(高山教区不遠寺)
    • 講題「歎異の世界―宗教とは何だろう」

    日本における最も有名な宗教書の一つである『歎異抄』。「先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに」(序分)、「一室の行者のなかに、信心ことなることなからんがために、なくなくふでをそめてこれをしるす。なづけて『歎異抄』というべし」(後序)。

    親鸞聖人が亡くなられて、二十七・八年経った頃に成立したと考えられるこの書は、歎きの書です。教えを楯に取り、自分を正当化して、その正しさを誇ろうとする「異なり」は、自分にある問題ではないか。他の異なりを断罪し、糾し、正義を標榜していくのではなく、異なっていく人間を見つめ、なぜ異なるのか、どこにその人間の課題があるのかを深く汲み取った親鸞聖人の眼。それを伝えるからこそ、多くの人のこころをひきつけ、読み継がれてきたのでしょう。
       

    [ 2013.04.03 ] 

  • 3月の公開講座【終了】

    • 日時3月11日(月) 18時~20時
    • 講師佐野 明弘 氏(石川県加賀市光闡坊住持)
    • 講題「無碍の一道」

    私たちが聴聞していて苦労するのは「念仏」です。念仏をどのようにいただいたらいいのか、そういう発想で教えを聴いています。だんだんわかって、身に付けていく。物事を道筋で考え、そこを歩もうとします。これが「道」です。聖道という道です。この道というものを支えているのは、きっと行き着くであろうという希望と、歩もうという自分の努力です。
     しかし、信心は道ではない。心の工夫によって念仏を自分のものにしようというのではなく、念仏に頷く心を信心といいます。目覚めです。目覚めるのにだんだん目覚めるということはありません。「あぁ、そうであったか」と、瞬間に目覚める。今まで自分で考えていた世界が変わるわけです。このように世界が開くことを「土」といいます。
     念仏の教えは「浄土」の念仏です。浄土が念仏として届く。だから念仏は歩むのではなく聞くのです。念仏申せという声に頷くところに、すでに浄土が念仏として、私に届いている。これを、浄土からの無碍の一道というのです。
             ~『人間を生きる』(東京教区)より抜粋~

       

    [ 2013.03.02 ]