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公開講座

  • 5月の公開講座【終了】

    • 日時5月23日(金) 18時~20時
    • 講師谷本 忍 氏(静岡別院輪番)
    • 講題悲しみから喜びへ

    真宗教団において、まことの信心に異なることを歎き悲しみ、私たちが念仏申し、信心を受け継いでいくときにおこる疑いや惑いに応えるために書かれたのが、『歎異抄』でありましょう。

     この『歎異抄』は、「念仏」という言葉で貫かれていますが、称名念仏である南無阿弥陀仏は、悲しみと喜びを内に秘め外に表現しています。東日本大震災・原発事故から3年余り経ちました。現地では放射能で、地域社会、家族、友人関係などが「分断」され、復興の出発点にすらたてないと言われています。今こそ、その「分断」状況に寄り添う悲しみと喜びが求められているようです。

     まとまりのあるものが分断されていく、生と死が分断されていく、念仏を申しても、喜びの心がわかない。その心に寄り添う悲しみ、喜びはどうすれば回復できるのか。

     第9章で「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と、唯円房の心に寄り添い、親鸞は語り始めました。

    [ 2014.04.17 ] 

  • 4月の公開講座【終了】

    • 日時4月15日(火) 18時~20時
    • 講師延塚 知道 氏(大谷大学特任教授)
    • 講題『歎異抄』に聞く

    合理性や有効性を追い求めている世の中の見方からすれば、念仏なんて何の役にも立たないというのが、ほとんどの人の見方でしょう。仏教の話を聞くくらいなら、お金儲けをした方が良いのですから。若者の仏教離れの理由はその辺にあると思われます。確かに念仏は、われわれの生活には何の役にも立ちません。 しかし、寂しくて、うつろで、不安で、夢のように終わっていく人生に、確かに自分らしく生きたという絶対満足の目覚めをもたらす教え、それが念仏です。人間は、豊かで、便利で、快適な合理性などを求めているのではありません。私が私で良かったと心から言えること、そこに、全ての人の絶対満足の世界があるのです。それを親鸞聖人の『歎異抄』に聞いていきましょう。

    [ 2014.03.29 ] 

  • 3月の公開講座【終了】

    • 日時3月24日(月) 18時~20時
    • 講師高橋 法信 氏(大阪市 光徳寺住職)
    • 講題日ごろのこころ

    自坊の掲示板に「聞くことの難しさと大切さ」というテーマをつけて、内容を「人間の愚かさは、何事に対しても答えを持っているという事です」と書いてみた。すると、「この文章はおかしい」と何人かの人が注意をしにこられた。「答えを持つと思考停止になるのでは? 持った答えに縛られるのでは?」と聞き直してみたら、「そんなことはない」と言い残して帰られた。
     部落差別・在日朝鮮人差別・人種差別・民族差別・性差別・公害差別と、今現在を生きる我々が抱えている問題はきりがない。しかし、自分の出した答えに執着し、聞く耳を持とうとしない私たちのあり方がこれらの問題を生み出すのであり、それが「人間の闇」なのだろう。
     仏教は人生を業(宿業)という言葉で語られる。しかし、病気になることは業ではない。被差別部落に生まれたことも、女性に生まれたことも、「前世の業のしわざ」という使い方は間違いだ。
     宿業の宿とは歴史と社会を宿しているという事。我々が宿業の身である自分の体質を問うこともなく、決めつけて生きるあり方を「日ごろのこころ」というのだと思う。

    [ 2014.02.11 ] 

  • 2月の公開講座【終了】

    • 日時2月4日(火) 18時~20時
    • 講師畠山 明光 氏(湧別町 真宗寺住職)
    • 講題善人とは 悪人とは

    善人とは誰のことか。悪人とは誰をさすのか。
     今、私共が求めている生きざまは、社会に役に立つ人間になろうとして、善人を求めて生きているのではないか。しかし、善人とは自己の分別心を根におき、善し悪しを決め、善き人となるものを求め、悪しきものを嫌い捨てる。その基準は、自己分別の善し悪しの生き方ではないか。
     そのことを聖人は「自力作善のひと」と言われた。「自力作善のひと」は自己の中にも悪しきものを見い出し、嫌い厭おうとするばかりでなく、他の人々の中にも自己分別心をもって善き人悪しき人をつくり出す。その自己中心の分別心を破るものこそ念仏成仏の道なのではないか。
     歎異抄第三章を中心として考えてみたい。

    [ 2014.02.01 ] 

  • 1月の公開講座【終了】

    • 日時1月17日(金) 18時~20時
    • 講師金石 晃陽 氏(蘭越町 光福寺住職)
    • 講題「自然のことわり」

    今回の講題の「自然のことわり」は、『歎異抄』の「第6章」と「第16章」に出てくる言葉です。特に「第16章」には、「自然」という言葉が、計5回も出てきます。

     この『歎異抄』に書き記されているのは、最晩年の宗祖の言葉です。同じ最晩年の宗祖の著作である『自然法爾章』・『尊号真像銘文』・『一念多念文意』・『唯信鈔文意』・『末灯鈔』にも、この「自然」という言葉が数多く用いられています。

     私には、「二回向四法」といわれる宗祖の教学が、その最晩年には、「自然」という言葉に昇華されていくようにも思われます。

     今回は、「無為自然」「業道自然」「願力自然」の三つ自然をキーポイントとして、宗祖のお心を尋ねさせて頂き、それによって、大乗仏道の原理である「真如はこれ諸法の正躰なり」(『論註』下巻)の内容を確かめたいと思っています。

    [ 2013.12.29 ] 

  • 12月の公開講座(東本願寺会館報恩講)【終了】

    • 日時12月18日(水) 13時~15時30分
    • 講師黒萩 昌 氏(蘭越町 法誓寺住職)
    • 講題「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」

    去る7月、広島県呉市で16歳の少女の遺体が発見されました。そしてまもなく、16~21歳の男女7名が死体遺棄、強盗殺人、監禁、窃盗の容疑で逮捕・送検されました。

     男女7名は車の中で、被害者少女に暴行を加え、「このまま帰したら警察に訴えられる。帰すわけにはいかない」と、車外でさらに暴行を加え、最後は少女の所持していた現金やキャッシュカードを強奪した上、首を絞めて殺害してしまいました。

     人間はひとたび歯止めがきかなくなった時、ここまで行き着くものなのかと暗く重いものを感じた事件でありました。

     この少年少女たちに、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という罪業深き人間のあやうさを教える大人が、一人でもそばに居たならば、結果は随分違っていたのではないかとも思います。

     私たち真宗門徒は、この事件から何を問われているのでしょうか。『歎異抄』第十三章にたずねてまいりたいと思います。

    [ 2013.12.03 ] 

  • 11月の公開講座【終了】

    • 日時11月14日(木) 18時~20時
    • 講師義盛 幸規 氏(中標津町 法薗寺住職)
    • 講題「親鸞聖人像の再構築―『歎異抄』と『口伝鈔』を通して―」

    親鸞聖人の門弟・唯円大徳がしたためたとされる『歎異抄』と、親鸞聖人の曾孫・覚如上人が製作した『口伝鈔』。それぞれ親鸞聖人のお姿を表現した言行録ですが、そこに描かれた親鸞聖人像は同じものではありません。公開講座ではその理由をたずねてみたいと思います。その為に、
    (1)現代と鎌倉時代の距離感
    (2)唯円大徳と覚如上人
    (3)『歎異抄』と『口伝鈔』それぞれの撰述の意図
    を確かめます。その上で、現代を生きる私たちが想像すべき親鸞聖人のお姿を考えましょう。
     果たして、そこに表現される親鸞聖人は、現代を生き北海道に暮らす私たちにどのような言葉をかけてくださるのでしょうか。

    [ 2013.11.01 ] 

  • 10月の公開講座

    • 日時10月24日(木) 18時~20時
    • 講師浅野俊道氏(新十津川町樹教寺住職)
    • 講題「往生浄土の道」 ― 世を超えて世に生きる ―

    宗祖親鸞聖人が自らの求道を通して開顕された仏道は「浄土往生の道」であった。
     すなわち、私ども人間界にあって浄土の世界(仏の世界)からの呼びかけに応答し浄土のいのちを根拠として生きる。そのことが人間の自覚(めざめ)に通じる道であると教えて下さったのである。
     浄土とは清浄の国土という意味であるが、天親菩薩の書かれた『浄土論』には、その徳を清浄功徳と表されている。
     そしてその文には

      観彼世界相 勝過三界道
      (彼の世界の相を観ずるに 三界の道に勝過せり)

    と述べられ、浄土の徳相を観ることにおいてはじめて三界が流転の世界であることを知ることができる。三界とは欲界、色界、無色界を言い、人間が経験する経験領域の全体を指す言葉である。しかし、これら三界の相は、すべて生死流転の世界であり、そのことを本当に知らしめてくれる用きこそ浄土と宗祖は教示せられたのである。

    [ 2013.09.30 ] 

  • 9月の公開講座【終了】

    • 日時9月25日(水) 18時~20時
    • 講師高瀬法輪氏(北広島市無礙光寺前住職)
    • 講題歎異抄の「さとり」と二種回向

    ・来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定のみちゆえなり。
    ・戒行恵解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の 苦海をわたり、報土のきしにつきぬるものならば、煩悩の黒雲 はやくはれ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍 の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さと りにてはそうらへ。
    ・金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂 護して ながく生死をへだてける
    ・浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをば ひらくとならひそうろうぞ
    (歎異抄第十五条より抜粋)

    『歎異抄』第十五条は、親鸞聖人の二種回向のご了解を、弟子である唯円もまた明確にいただいていることを窺い知る事ができる大切な章です。一般的に「異義編」が読まれることは「師訓編」よりも少ないのですが、この機会に第十五条の原文にふれ、また声に出して読んでいただければと願っております。

    [ 2013.08.07 ] 

  • 8月の公開講座【終了】

    • 日時8月5日(月) 18時~20時
    • 講師澤田秀丸氏(旭川別院輪番)
    • 講題「念仏とは」

    『歎異抄』を貫いている精神は、言うまでもなく「念仏」であります。
     とくに第二章で念仏の信心が説かれているのを中心に、41回にわたって「念仏」が記述されていることからも知見することができます。
     ただ「南無阿弥陀仏」の文言は一箇所も見ることはありませんが、「称名はすなわちこれ最勝真妙の正業なり、正業はこれ念仏なり。念仏はすなわちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなわちこれ正念なり」(『教行信証・行巻』P161)と念仏は南無阿弥陀仏であると教示されています。
     そして念仏は、「唱」名(名を声に出して読み上げる)ではなく、「称」名(仏名に適応する)念仏で「能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたもう。」(同)仏のはたらきであります。
     私たちの無明を破し、志願を満てる南無阿弥陀仏とは、如何なるはたらきでしょうか。

    [ 2013.07.25 ]