2023.03.05
2023年2月22日、死刑制度問題班第4回実行委員会兼班内学習会が開催されました。今回の班内学習会では平野喜之氏(金沢教区淨專寺御住職)を講師としてお迎えし、2018年7月6日に死刑が執行された井上嘉浩氏(オウム真理教元信者)との出遇いを通して感じた死刑制度への問い、カルトの恐ろしさ、「償う」とはどういうことなのかを、映像を交えながら丁寧にお話しいただきました。まず、死刑制度に対する疑問として「自分が犯した罪と向き合いながら生き直そうとしている人を殺す意味はどこにあるのか?誰の為なのか?」井上嘉浩氏との出遇いを通して感じたと仰っていました。私自身映像で井上氏の生涯や犯した罪を拝見しながら感じたことは、人それぞれ経験してきた悲しみも苦しみも違うなかで、縁によって誰しもが罪を犯しかねない我が身であることや、カルトの恐ろしさ、また人間の心は良くも悪くも出遇いによって動かされていくものなのだとあらためて感じました。また現在の制度について、死刑囚の方は拘置所で罪と向き合い、人と会うことを通して人間的に成長していくはずなのに支援者たちとの交流が厳しく制限されていることについても疑問があると仰っていました。講義のなかで「痛みが人を育てていく」という言葉を平野氏が教えてくださいましたが、その言葉を通して、罪と向き合い生き直すということを奪う死刑制度について深く考えていかなければと感じました。
そして平野氏は「償う」ということについて、
1 誰が、誰に償うのか?
2 死刑は罪の償いになるのか?(国家に対する償いではなく被害者に償うとは?)
3 人を殺すということが許される場合があるのか?
ということを提起してくださいました。
この「償う」ということの問いについて講義をいただくなかで印象に残っているのは、事件によって被害者遺族の感情は様々で、本当の意味で「償う」とは加害者が自分の償いの心を発信し罪と向き合い続けることであり、被害者と加害者の関係性が変わっていくことが大切であると仰っていた平野氏の言葉です。今期の学習会を通して、自分自身の感情が揺さぶられながら色々な方のお話しを聞かせていただいていますが「償う」ということの意味も考えていかなければと感じました。
(報告者:巌城孝順)