2023.06.07
5月31日から6月2日まで、現地学習会として東京拘置所を訪ねた。2月の班内学習会のご講師であった平野喜之師(金沢教区 淨専寺住職)も同行して下さった。今回3名の未決囚との面会予定であったが、お1人が5月15日付けで最高裁への上告を突如取り下げ求刑通り死刑判決が確定した。直前まで手紙のやり取りを続け面会予定であった班員は突然「面会不可」となったのだ。「確定囚」となると、外部との交流に大きな制限がかかり実情として家族や弁護士以外との交流が強制的に断たれるのだ。法制度の現実を目の当たりにした。
面会場所である拘置所10階までのエレベーターや一本道の廊下が非常に長く重く感じた。アクリル板越しに面会した人は家族6人を殺害した凶悪犯とはとても思えない何処にでもいる普通の物静かな男性であった。無意識に身構えていたのであろう。そんな自分が恥ずかしいと心で思いながらも自分が面会相手の「手」ばかり見ている事にも気付いた。「あの手で家族6人殺したのか」と無意識に見ていたのである。成人男性にしては白く小さい綺麗な子どもの様な手であったのが印象的だった。普段の生活や趣味、今思う事と様々な話が出来た。今回2日(1回20分)面会できたのだが、2回目の面会で殺害した子ども達の事を少し話してくれた。「今でも部屋に子ども達の写真を飾って毎日手を合わせている。最初は殺害した家族を供養する為に写経をしていたが、病気で事件の記憶を完全に失ってからは写経はやめました。写経をする意味さえ分からなくなってしまいましたから」と。記憶があるなら罪と向き合う事が出来るが、その記憶を失った場合、罪とどう向き合うべきなのか…。
私達死刑制度問題班が共有している課題は「死刑制度の廃止・存置」ではなく、「死刑制度を通して人間としてのいのちそのものを問うていく」事である。法治国家では法の下で「裁く人間と裁かれる人間」がいる。「裁き裁かれる」より、先ずは「事件(罪)と真剣に向き合う時間と環境が必要なのではないか」と感じた。自分が犯したであろう取り返しのつかない罪の事実に心から真剣に向き合う事が出来ないまま進んでいく事に少し戸惑いを感じた。反面、被害者ご遺族の心境を鑑みると「一日でも早く被害者の無念や怒りを死刑という最も重い刑罰で償って欲しい」という気持ちも理解出来る。しかし死刑が執行されるという事は、今自分の目の前にいる人間が国家に殺されていく事。自分の心が揺れ動いた。
藤井誠二さん(ノンフィクションライター)との学習会で印象的だったのが「理と情」の話であった。自分の立ち位置、環境、心情により「理」と「情」の間を右往左往してしまうと。「フォーラム90」の方々との会議、懇親会では死刑制度の問題点や課題を語り合えた。この熱意ある活動の原動力は何処から湧き出てくるのかと驚いた。力漲る熱意を感じた。最後の部会長の言葉も胸に残る。「未決囚との面会を最終目標にしてはいけない。面会はあくまでも出会いの1つであり、その出会いの中から自分に問われる課題を大切にし続けて欲しい」と。今回の現地学習では自分にとって「いのち」の課題を突き付けられるものになった。
(報告者:斉藤友明)