2025.04.18
3月28日午後2時から名古屋市在住の大山寛人(おおやまひろと)氏を講師に迎えて、死刑制度問題班の班内学習を行いました。
大山氏の父は養父と妻(大山氏の母)を殺害し、死刑が確定している(「広島連続保険金殺人事件」と一般的に呼称されている)人物です。大山氏は、母が殺害されていることから被害者遺族であり、同時に、父が殺人犯であることから加害者家族でもある方です。
大山氏は、この事件の経緯、そして、その中でご自身の感じたことをお話されました。
最初、大山氏は、母を失った悲しみが強く、母を殺害した父への強い怨みを懐き、報道で知った父の死刑判決も当然のものと思われたとのことです。しかし、事件に対する報道を見た中に、幸せだった家族の記憶もあり、父は本当に保険金を目当てにしていたのか、疑問が出てきました。大山氏は、直接、父に確認することを考え、面会をしました。すると、実際に父と面会すると、変わり果てたすがたを見て、父が罪の重さを理解して、後悔しているように見えて、父親に対して、怨み言などを言うつもりだったが、何も言えなくなった。その後、面会を重ねる中で、大山氏は、父がこのまま死刑になっても母が生き返るわけではないので、父に生きて罪を償ってほしいと望むようになった。これに応えて、父は、死刑を回避するために控訴するが、最高裁判所で死刑が確定しました。
このお話をされたあとに「同情してほしいということではない」という前置きをした上で、死刑制度を考えてほしい、被害者家族が望まない死刑が存在すること、加害者家族の辛さ、これらのお話をされました。
加害者家族の辛さについてのお話は、私自身がこれまであまり気にもしてないことを教えられました。大山氏は被害者遺族でもあり、加害者家族でもあります。しかし、世間の目は、加害者家族として見る方が多数と感じられるようです。ご自身のお話では、就職しても父親が殺人犯であることが判明すると、加害者家族であることにより退職をせざるをえなくなる。つまり、加害者家族であることにより、居場所が奪われる、ということです。
なぜ、このようなことが起こるのかと考えると、それは、「眼の前にいる人は、加害者ではないが、加害者家族も加害者同様に危険だ」というような考えによるものではないでしょうか。
私は、このことを質疑応答の時に「「親が親なら子も子」という言葉に象徴されるようなことは問題があり、根深いことだと思った」という趣旨のことを言ったところ、大山氏は、「親がどういう子どもと関わらないでほしいか」というのは自然な気持ちであり理解でき、差別と言えるかというと難しいと言いつつも、この言葉に象徴されるようなことで苦しい思いをしたことをお話されました。
大山氏が言われた親の気持ちというのは、自分たちをまもるためにはたらく自然な気持ちのように思います。しかし、それによって居場所を奪われる人がいるのも、また事実なのではないでしょうか。
私自身もこのような思いが起こってくることがあるのも事実です。その自然な気持ちにより、誰かを排除してしまっているかもしれない。これは自分たちをまもりたいという自然な気持ちであり、悪意をもって他者を排除するということとは違うと思います。しかし、結果として、自然な気持ちによって排除してしまっているのです。この自然な気持ちを吟味したことがあったでしょうか、と問われたならば、私にはありませんでした。
今回の班内学習で言うならば、加害者家族の知り合いや友達がいたら、もっと言うならば、加害者家族の方の話を聞いたことがあったならば、この自然な気持ちに対して疑問が起こることがあるかもしれないと思いました。
人に会う時に、自分の想像が先行してしまい、結果として眼の前の人との出会いを自分の持っている想像が阻害するのです。私は眼の前の人を見ているのか、それとも、私の想像で眼の前の人を見ているのか。本当に人と出会ったならば、私の想像でしか相手を見ていなかったということが教えられるのではないでしょうか。ここに改めていろいろな人に会うことの大事さを思います。ただし、そこに自分はどのような姿勢で相手に会おうとしているのかが大きな問題ではないでしょうか。
(報告者:岩田 広大)