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宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要特設ページ

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共なる世界を願って
─ 北海道開教の歴史をかみしめ、
一人ひとりの立教開宗へ ─

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共なる世界を願って
―北海道開教の歴史をかみしめ 一人ひとりの立教開宗へ―
このたび、北海道教区として「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要並びに現如上人百回忌法要」を迎えるにあたり、当準備委員会といたしましては「共なる世界を願って―北海道開教の歴史をかみしめ 一人ひとりの立教開宗へ―」を教区慶讃テーマとして掲げ、事業内容を検討・企画いたしました。教区慶讃テーマ策定の願いと趣旨を表明することをもって基本方針といたします。

テーマ「共なる世界を願って」
「浄土真宗」は、親鸞聖人が主著『顕(けん)浄土(じょうど)真実(しんじつ)教(きょう)行(ぎょう)証文類(しょうもんるい)』において「真実の教 浄土真宗」と標挙(ひょうこ)の文に掲げたように、末法五濁の世に生きる煩悩具足の凡夫が歩むべき唯一の仏道を世の中に広く標榜した名です。
親鸞聖人は、よきひと法然上人との出会いによって「南無阿弥陀仏の御名を聞き、摂取不捨の阿弥陀如来の本願に出会い、いつ、どこの、誰においても、煩悩を具足しながら救われる仏道」を歩む身となりました。後にその出会いの感動を、「源(しょう)空(にん)光明はなたしめ 門徒につねに見せしめき 賢哲(けんてつ)愚夫(ぐぶ)もえらばれず 豪貴鄙賤(ごうきひせん)もへだてなし」とご和讃に詠まれています。そのご和讃から推察するに、法然上人のみもとをたずねられた親鸞聖人が出会われたのは、念仏の教法だけではなかったことがわかります。そこには身分・年齢・能力などの違いを超えた、ありとあらゆる人たちが、親鸞聖人と同じように法然上人に救済の道をたずね、念仏を申しておられたのでした。その一人ひとりの聞法・念仏の姿を通して、阿弥陀如来の本願が、各個の欲求を超えて、人と生まれたもの全てに通底する志願を呼び覚ますものであることを感得されたに違いありません。
親鸞聖人の立教開宗の精神とは、法然上人との出会いを原体験として、人間の自己中心的な欲望を満たそうとする価値観・生き方の中から、様々な価値観・生き方の違いを超えて、浄土(共なる世界)を願って生きんとする道を共に聞き開かんとしたその後のご生涯そのものに見ることができます。まさに越後・北関東でのご事績からは、文化・生活習慣を異にした「いなかのひとびと」と共に「われらなり」と言い切れるような同朋関係が生み出されていった出会いの中に「教化」の具体性が現れています。そのような親鸞聖人の歩みを念頭に、北海道教区における慶讃テーマを「共なる世界を願って」と掲げることにいたしました。
サブテーマ「―北海道開教の歴史をかみしめ 一人ひとりの立教開宗へ―」
私たちは、北海道という地で念仏のご縁をいただいております。この私たちが申す念仏の背景には、無数の方々の念仏相続のご苦労の上に成り立っていることは言うまでもありません。しかし同時に、この北海道に私たちの生活が根付くまで、様々な痛みや悲しみを積み重ねてきた中に現在が成り立っていることも忘れてはなりません。そのことを併せ持って考える具体的な課題として、「北海道開教」についての教区としての位置づけを明確にすることが必要となってまいりました。
当準備委員会では、付託された事業名称についての協議のため「北海道開教」に関する諸問題を確認し、「北海道開教百五十年」に関連した記念慶讃事業を執り行うか否かを協議いたしました。もとより北海道教区では、現如上人北海道渡道による新道切開事業、及び札幌別院の創立を教区における「開教元年」と位置づけ、1969(昭和44)年には「開教百年」と銘打って慶讃事業を盛大に行ったことにより、「開教百五十年」についても同様の節目として慶讃事業を行うことが必然であるとの見方もございます。
しかしながら、1977(昭和52)年に起きた「大師堂爆破事件」の決行声明より、それまで偉業とされてきた北海道開拓・開教を「東本願寺は日本国家と共にアイヌモシリを侵略し」という衝撃的な言葉によって指弾されたことは、私たちが慶事としてのみ位置づけていた「北海道開教」を捉え直す契機となりました。北海道近代化の背景には、住む土地を奪われ、生活習慣・文化をも否定された先住民族「アイヌ」の存在があります。その存在を素通りし、宗門における「北海道開教」が一面的に讃美される中に閉鎖性・差別性が潜んでいることを、初めて知らされたのです。また、主に道南地区においては明治以前から寺院が建立されていたことに鑑みると、現如上人を中心とする「開教」史観では北海道教区としての公平性が保てないとの意見も上がりました。
「開教」という言葉には、国家と教団が繋がって「皇民化」「植民地支配」という実態と共に使われてきた背景があり、移住・入植者をルーツとする私たちの歴史観においては、その問題意識と重要性がしっかりと認識されていないという大きな課題があります。このことを重く受け止める時、北海道教区としては「北海道開教」という歴史観を、今まで位置付けてきた「慶事」としてではなく、「課題」としてその意味合いの受け止め直しを行うことといたしました。
真宗寺院は「念仏の道場」をその原型としているように、あらゆる人に開かれた求道の場であると共に、一人ひとりに念仏が相続されるところに存立の願いがあります。しかし、私たちはその本義をいつでも見失う存在でもあります。そのような私たちだからこそ、「開教」の言葉そのものが本来持つ「立教開宗」としての意味を一人ひとりにおいて回復していくことが、いつの時代においても願われているのでありましょう。これらの課題の具体性を示すために、サブテーマを用い「―北海道開教の歴史をかみしめ 一人ひとりの立教開宗へ―」と表現させていただいたことであります。
終わりに
近年、多くの人たちがこころを揺さぶられた法語として「これからがこれまでを決める」という藤代聰麿氏のお言葉が流布しております。まさにこの「現如上人百回忌法要」から「御誕生八百五十年・立教開宗八百年」へと続く慶讃事業を迎える私たちが教えに身を据え、力を尽くしてこれからの北海道教区教化の方向性を共に考え、寄る辺なき現代社会のただ中において教えに出あう場を確保し創造していくことが、私たちにおいての「立教開宗」であると同時に、先人の労苦に報いることとなっていくのではないでしょうか。

教区テーマインタビュー

―2017年より桂井議長が就任されてから、基本理念策定委員会・慶讃法要準備委員会で各委員会の長として教区の議論を取りまとめていただき、今年の2月に慶讃テーマを基本方針とした慶讃法要委員会が発足しました。その経緯を振り返りながら、どのようなことを教区の方々に発信し共有したいという願いがあるのか、お聞かせください。 私が議長に就任した当初、2年後の2019年に現如上人が北海道へ来られて150年の節目、あるいは2022年には現如上人の百回忌が控えており、それらをどのようにお迎えするのかということが大変大きな課題でした。本山では2023年の慶讃法要に向けてすでに動き出していましたが、北海道教区においては、この150年と、現如上人の百回忌をしっかりとお勤めすることが、慶讃法要の願いにも叶うのではないかと考えていました。 約50年前、北海道開教百年記念事業の時の先輩方の取り組みがどうであったのかと考えると、確かに北海道の明治初頭を彩る大偉業であったという受け止めでこの北海道開教百年記念法要が勤まったのですが、その後大師堂爆破事件をきっかけとして、北海道開拓・開教ということがアイヌ民族の方々にとって、実は大変な痛みや悲しみを伴うものであったということ、また決行声明の中にもあったように、国策に乗じて東本願寺がそのことに加担してきたのではないかということ、それらのことを先人のご苦労と共に問題点としてしっかりと受け止める150年にしなければならないと思っておりました。 先人のご苦労と一言で言いますが、幕末から明治にかけて宗門が取り潰されるかもしれないという危機の中で、先人たちが大変なエネルギーを持って、念仏の法灯を絶やすことなく私たちに伝えねばならないという使命の中で取り組まれたのでしょう。まずは、その先輩方のエネルギーをしっかり私達も受けとめることから始まり、同時に私たちのもたらした負の部分、アイヌ民族に対する差別に繋がるようなことにも広く皆さんに関心を持っていただき、それをさらに深めていくことが大事です。そして、宗門も含め人間の社会というのは常にどんどん新しい人が生まれていきますから、継続していくということがとても難しいことだと思うのですけれど、それをやり続けるきっかけとなるような150年、あるいは現如上人百回忌を迎えなければ、ということが最初の思いでありました。そのことをテーマの中で、あるいは実際の慶讃事業の中でしっかりと表現していくということを考えました。また、開教に関しては150というその数字を、私は自明のことのように認識していたのですけれど、北海道教区としての総意を取りまとめるにあたって、道南地方の方々にとっては現如上人の来道が開教ではないのだというその受け止めを初めて知るということにもなりました。 ―桂井議長が「北海道開教150年」にそこまでの思いを持たれたのは、帯広別院の開教百年記念法要での平野修先生の記念講演を契機に始まった17組・帯広別院の学習会の参加や、第4期教化本部の時に差別問題研究部会の部会長をされたということがあるのだと思うのですが、その中でどういうことを学んでいかれたのでしょうか。 私たちは指摘されなければ、自分にとって都合の悪いことには関心を寄せないといいますか、まず、自分の意思では自分の抱えている問題性、差別性に気づくことはないことを学びました。今、宗門では「是旃陀羅」の問題もありますけれども、本当に考えてみれば大変なことを見過ごしてきたということですね。だから差別性というのは、あからさまに誰を差別するとかということよりも、無知であり無関心であるというところが実は差別を助長しているのだということを知らされました。今知らされてすぐに何ができるっていうことではないのですけれど、まずは関心を寄せるということです。 例えば十勝では、浦幌のアイヌ協会の方が、道や国に鮭の漁業権の回復を求める訴訟を起こしていることであったり、各地のコタン近くの埋葬場所から大学の研究者たちによって無断で持ち出され保管されていた遺骨を、元々住んでおられた方の所に返還するという取り組みもありますけど、そのようなことがどういうような動きになっているのかということに関心を寄せるというところから始まるのだと思います。『共なる世界を願って』の冒頭に、あるアイヌの方から「東本願寺は、明治政府の同化政策と一緒になって、北海道に一番乗りしたのであったら、今度は、北海道が、本当に人と人とが尊重し合って生きられる人間の大地=アイヌ・モシリとして回復されていくことの先頭に立ってもらいたい」という言葉が紹介されていますが、そういう私にさせてもらうことが150年前に来られた先人の方々のご労苦に応えていく責任だと思っていますので、そのことをこれから慶讃法要のテーマ「共なる世界を願って」ということで全てを通して、その意思を貫いていきたいと考えています。 ―今ほど「是旃陀羅」の課題をおっしゃいましたが、北海道開教ということで言えば「錦絵」についても同じように教団の教化の現場において差別的な構造を受容する形で用いられた責任というものがありますね。 「錦絵」のことで言うならば、現如上人五十回忌の時にも広く東本願寺の偉業を称えるために「錦絵」が再版され、寺院に記念品として何枚か配られたということを聞いていますけれど、その絵を見て本当に傷ついたり、悲しみを感じたり、なんとも居たたまれない気持ちになる人の存在があるっていうことに思いが至らなかったということですね。私は当初「錦絵」について、確かに跪いたり土下座をしたりという構図もわかっていましたけれど、これは歴史の事実としてこういうこともあったということなのだから、何が問題なのかということが実はよくわからなかったのです。頭の中ではアイヌの人もたくさんの人が暮らしているということは頭ではわかっているつもりなのですけれど、実際にその人たちに思いが至らないということですね。「是旃陀羅」のことも全く同じだと思うのですけど、無関心であることが人をどれほど傷つけているのか、そういうことに気づいてくれよということが教えに出遇うということなのではないのかなと思っています。 ―教化の差別性ということを共有しようとする時に、「自虐史観」という言葉もありますが、いわゆる「開拓民」としてやってきた自分たちの先祖を含む人たちに「侵略者」という汚名を着せて、今の価値観で批判的な位置づけをするというのは抵抗があるというような声もよく聞かれます。 特にご門徒さんにとっては、そのような感覚をお持ちの方は多いと思います。この慶讃事業は僧侶だけじゃなく、ご門徒さんと共に考え、共にお勤めしていくものですから、いかに課題を共有し、ご理解いただけるのかということについては、当初から苦労がありました。けれども、「自虐史観」と「自尊史観」という形で二元化するのではなく、アイヌの方々から「あなたがたにビルを背負って、北海道から出ていけ、と言っているのではない。共生の世界を一緒に実現させていきたいのだ(『共なる世界を願って』巻頭文)」という、そこに僕はやっぱり願いがあると思うのです。過去を否定することではなくて、過去を担う人になるということが、自虐的なものを超えていくということだと。ちょっと難しいですけれども、そういう感覚に陥らないように、本当の未来志向といいますか。まず立ち止まって自分を振り返って、無関心であったということに気づく所からしか始まらないのですよね。常に私たちはそういう感覚を保つような場所、つまりアイヌの人たちとか、様々な人たちとの関わりの中を生きなければ、そういうのを保つことすらもできないと思います。 ―そういう意味で今回のテーマに戻りますけれども、資料集のタイトルにもなっている「共なる世界を願って」という言葉をずっと北海道教区は大事にしてきました。それを今回の慶讃法要のメインテーマとしたうえで、「北海道開教の歴史をかみしめ一人ひとりの立教開宗へ」というサブテーマにはどのような思いが込められているのでしょうか。 150年という数字は今回掲げることはなかったですけれども、「北海道開教」という言葉がここにちゃんと刻まれて、そしてこの「開教」というのはまさに「立教開宗」であると。一人ひとりの為に宗祖がお生まれになり、ご苦労があり、それがこの私一人の為であったのだというそういう受け止めですよね。今まで私たちは「開教って何だったのかなぁ」ということを「近代初頭の偉業」とか「侵略だった」とか、あるいは「教線拡大のため」という言葉として捉えていたけれど、そうではなくて、本当に教えによって自分たちが閉じていたものが開かれていくということに繋がるということですね。改めてサブテーマを通してこの「開教」と「立教開宗」ということがリンクするということを、私ははじめて気付かされました。私たちは真宗の教えをいただいて「本願を信じ、念仏申し、浄土に往生する」、それが本当に私の願いになっているかということが問われるのですけれども、まさに生きている今において他者との間に「共なる世界」が開かれているのかということが問われていくテーマとして教区の皆様に受けとめていただければいいなと思っています。 ―次に具体的な作業部会の取り組みについて、特にこれから慶讃法要に関する様々なご案内が教区内に発せられると思うのですけれども、各部会の見どころといいますか、注目していただきたい所をお聞かせください。 まず今のテーマに関して言えば、お待ち受け大会(2022年12月3、4日開催)の記念講演を楠信生氏(第17組幸福寺・教学研究所長)と結城幸司氏(アイヌアートプロジェクト代表)にお引き受けいただきました。楠先生には「開教」の本義としての「立教開宗の精神」について、また結城氏には「共なる世界を願って」というテーマのもと今までの大谷派との関りを含めての率直にお考えになられていることをお聞かせいただきたいと思っています。また、北海道開教学習教材作成部会というのがありますけども、全三回の特別公開講座の冊子化の他、北海道内のアイヌ関連地域と大谷派に関する史跡をフィールドワークする時に、学びの案内となるようなガイドブックを作成しています。 それから慶讃法要の団体参拝(第1期2023年3月25日~4月8日、第2期4月15日~29日)ということに関して言うならば、北海道教区では単に団体旅行・観光だけではなくて、ここでもしっかりと仏法聴聞していただくということで「宿所伝道」を先の御遠忌でも行ってまいりました。今回もコロナ禍の中で様々な配慮をしながら、「宿所伝道」が実現できるよう取り組みが企画されています。団体参拝というのは、お寺とご門徒さんを繋ぐと言いますか、そこでより絆を深めるようなこととして今までも取り組まれてきました。今回コロナ禍の中で、どの程度できるのか、多くの人が不安を抱いていると思いますが、今現在旅行ということも少しずつ解禁されはじめた中で、何とかこの団体参拝へのお声かけをきっかけに、ご門徒さんとの距離を縮め、関りを深める手立てにしたいと思っています。 それから、記念事業部会では、比較的若い方々が実行委員となり、公式LINE・インスタグラム・FacebookなどのSNSを活用した情報共有や出会いの場を提供するようなコンテンツを模索しています。これからの北海道教区が寺院関係者のみならず、一般の方々にもアプローチを広げていくことも視野に入れつつ、その中で本当に一石を投じるような取り組みといいますか、どんなことができるのかなと…僕もそういうことに疎いからよくわからないのですけど(笑)。とても面白い取り組みですので、若い方々のいろんなアイディアを吸収しながら、これからの北海道教区に資するようなものを作りあげてほしいですね。 ―まずは団体参拝が一つの核となって、お待ち受け法要やテーマ学習会がそれをサポートし、課題を共有していけるような体制を作られているということですね。あとは慶讃法要にどれだけご門徒さんにお声かけをして、一緒に上山するということが実現できるのかということですが… このことについては、全国正副議長会の中でもハイブリッド型の団体参拝ということを要望しています。それが実現できれば、実際にご本山に行けない事情を抱えている方でも、慶讃法要にお会いいただくことができますし、お待ち受けの取り組みが上山される方だけのものではなく、広くご門徒さんにもお声掛けをしていけるのではないのかなと思います。現在は特にコロナ禍の中で、色々なものが制約を受けている状況ですよね。寺の色々な清掃作業とか、草取りとか、あるいは賄いのことも、去年1年間、今年に至ってもできないという状況の中で、本当に今までの通りご門徒さんとの繋がりというのが持てるのだろうかという危機感を多くの方が持っておられます。まさにご門徒さんに慶讃法要の周知をするということが、今までできなかったご門徒さんとの関わりを少しずつ回復していく大事な取り組みになればと思っていますし、自分自身もそうしていきたいと思います。 ―最後に、この度お迎えする慶讃法要を通して、これからの北海道教区、組、また各寺院にいたるまで共有すべき課題と方向性というものを今、議長としてお考えになられていることがございましたらお願いします。 たまたまこの慶讃法要と軌を一つにしたのですけれども、ちょうど今程言いましたコロナ禍という状況に加え、ご門徒さん達も世代交代する中で、本当にお内仏を中心として親から子、子から孫へと受け継がれてきた真宗の教えの相続が難しくなってきたと感じています。あるいは人口減少・産業の衰退ということで、過疎も進む中で、お寺の存在意義とか、僧侶の存在意義とか、宗門の存在意義というものが問われています。例えば私が自坊に帰ったのは平成元年、今から33年前ですが、月忌参りもその頃に比べると半分以下になりました。ちょっと前までは法務の件数の多さを競うような風潮もありましたけど、現在では法務が少ないのならば、今までできなかったことをきちんとお一人お一人の御門徒さんと丁寧に向き合っていくということが求められるのだと思います。忙しくなくなったからこそ、積極的に地域社会に根ざして、そこで共に生きていくということが意思表示として伝わるような行動が必要となりますし、強いて言えばそのような公性を持った活動が、北海道の寺院や僧侶が当初から担っていた役割の一つでもあったと思います。今でもお坊さんの振る舞いとか発言というものは、影響力を持っていると感じています。その関わりの中で、テーマ「共なる世界を願って」という言葉が自然と伝えられていくことが大事になってくると思います。ですから、これからの私達のすべき方向性とか課題といいますのは、特別なことではなく、地域社会の中で親鸞聖人の教えを大切しながら丁寧に生きていくということではないのかなと思います。 宗門では「一ヵ寺の活性化のために」「一人の念仏者の誕生を願う」という一貫したテーマがありますが、そこで本当に丁寧に生きていく人を生み出していけるように先輩方が築いてきた北海道教区のあり方ですね。具体的に言えば、一人の念仏者の誕生を願って今もそのことを願いとしている教研ですとか、教化本部の事業に道内各地の若い人に来てもらい、一緒に学び、色々な課題を持って地元に帰ってもらうというような教区の役割をしっかりと受け継いでいくこと。そのようなことを、この教区の慶讃法要の中でしっかりと確かめていけるような機縁にしたいと思っています。
―今回は慶讃テーマインタビューの第二回目といたしまして、長年教化本部にお関わりになり、慶讃委員会でも記念事業部会主査を担っておられます金石潤導さんに「開教」と組織教化についてお聞きしたいと思います。  「開教」という言葉には多様性がありまして、なかなか一口で語ることは難しいのですが、私たちの宗門が時代に応じて時代社会の要請に応えてきた「組織教化」という側面がございます。たとえば北海道開教とか明治以降の海外開教、戦時布教、そういうものは当時の時代の要請、また国家との関係の中で、宗門がそれに応えるようなかたちで組織的に動いていったような背景がありました。また、戦後においては「純粋なる信仰運動」という形で発足した同朋会運動が日本の民主化と軌を一にしています。そして今に至っては「地方創生」と言われる時代にあって、「寺院活性化支援室」が宗門の教化施策の中心に据えられているところであります。そういうところで、「開教」という言葉を念頭に置きながら、現在の宗門としての「組織教化の課題」というものを切り口にお話をいただければと思っております。  以前、「宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要の基本計画に関する委員会」という宗務審議会に関わらせていただきまして、そこでの出来事から少しお話をさせていただきます。  それは、慶讃法要をどのように宗門として迎えていくのかというようなことを内局に向けて答申する委員会なのですが、そこで私は「教学・教化に関する小委員会」に所属をいたしました。全教区とまでは言いませんけども若い人たちが招かれて、その中にまじって若干年配だった私が主査代理のようなかたちで、若い人たちの意見や話を聞くような立場で関わらせていただきました。そこには、この宗門として御誕生八百五十年・立教開宗八百年というものを、ある種ゼロベースとまでは言いませんけれども、若い人の意見を聞きながらお迎えさせていただきたいという願いが、内局はじめ本山サイドにはあったんだろうと思います。そこでは、五十年前の御誕生八百年慶讃法要の経緯、教学会議における中島岳志先生、安冨信哉先生、一楽真先生が提起された「是栴陀羅」の問題も含めて、慶讃法要に向けて深められた内容を私たちの議論のテーブルに載るように、レクチャーをいただいたということが始まりでした。そのうえで、それぞれ関わる若い人たちというのは、あくまで宗門人であるということと同時に、各教区とか現場でさまざまな課題を持っているということの中で、慶讃法要をどう迎えようかというような話し合いが持たれていくのです。  そのなかで何がおもしろかったかというと、通常こういった大きな法要を大きな組織を挙げてやっていく場合には、基本的な理念をみんなで語り合い、その理念が固まったうえで教化施策を打ち出していくというのがセオリーだと思うんですね。たとえば理念が「一」だとしたら教化施策は「多」です。その「一」が「多」を開き、そして開かれた「多」が「一」に収まっていくような教化施策というものを立案していくということがおそらく通常でありますが、それが小委員会では理念からは議論しなかったということがありました。というのは、「まずもってどんなことがしたいですか」ということから、みんなで議論を始めていくということが起こったのです。いわゆる、理念から具体的な施策を考えていくのではなく、具体的な施策から理念に迫っていこうというような試みをしました。そういう意味では、通常の議論とは全く逆転した形で議論展開をしたということがあったというのが、とてもおもしろかったと思っています。  それをあらためて考えてみると、たとえば私たちは北海道のさまざまな町に暮らしております。わたしは黒松内という町に住んでいますが、「あなたの暮らす町はどんな町ですか」と聞かれたときに、町民憲章とか市民憲章を持ち出す人はほとんどいらっしゃらないと思うのです。たとえば「うちの町はこんな歴史をもっていますよ」とか、「こういう福祉施策をしていますよ」とか、「こんな人たちがいますよ」というかたちで、とても具体的に自分の暮らす町というのを表現していきます。ですからいわゆる町民憲章などという、その理念をもって町そのものを語ろうということはないわけです。むしろその具体的なあり方、姿を通して表現しようとするのが、われわれのひとつの伝え方です。  では、私たちの属する宗門というのは「どんな宗門ですか」と聞かれたときに、大谷派宗憲を持ち出して説明する人はほとんどいらっしゃいません。具体的に、「こういう人がいて、こういう歴史があって、こういう取り組みをしていますよ」というかたちでお伝えするだろうと思います。ですから小委員会で語られたのは、全国におられる若い人たちが、宗門人でありそれぞれの地域で課題を持って生きる者として、自分たちがどんな宗門でありたいかということを具体的な施策をもって表現したいと。もっと言えば、「こういう宗門になっていきたい」ということを施策の中で表していこうという取り組みを、その時にさせていただきました。つまり、この小委員会では、理念と教化施策というものを同時に、並行的に議論を重ねていったという意味で、非常に新しい取り組みではなかったかなあということを思います。  それで、北海道教区としての慶讃法要の準備委員会、もっと言えば準備委員会の準備委員会から関わらせていただきましたが、そのときに北海道教区では基本理念から考えていくという従来の手法をとったのですね。それは従来の手法ですから違和感はないのですが、やはり理念から入ると非常に狭い感じがありまして、われわれが今後どういった教区像を描いていくのかというときに、議論が狭くなってしまったのではないかということを自身の反省も含めて思います。まず基本理念を策定し、それに資する施策というものを考えていこうということが順繰り行われていったという意味では、基本理念ありきで議論していますので、発想がその枠から出ることのない中で施策の議論が進められたのではないかということを懸念しています。 ―基本理念を議論・検討し打ち出すまでに時間と労力が割かれ、打ち出された理念に施策が限定されたり、上意下達的になってしまうことがひとつの課題であって、組織教化の活性化ということを考えたときに、それは現代社会・現場の課題を肌で感じている若い方の発想とか直感というところに可能性を見出すということですね。  そうですね。私自身教化本部に長いこと関わらせてもらいましたが、諸先輩から「やりたいことをやりなさい」「やらなければならないと思うならやらないでください」「せずにおれないことをしなさい」と、こうずっと言われてきました。そういう意味では、教化本部には教化本部の理念があってその中に閉じこもっていくのではなくて、結果的に踏襲事業になったとしてもかまわないから、本当に腹の底からわき起こってくるようなエネルギーをもとに教化施策というものを立案し、思い切って実施しなさいということであったと思います。当時マンネリという問題もありまして、マンネリの打破という中で、若い方も含めて閉塞感というものをどう突破していくのかと。それは、一面的に理念とか、あらかじめ枠組みをどこかに決めて、その中でやりなさいというのではなくて、枠組みには執らわれずに発想しなさい、動きなさいということを言われていたような気がします。 ―本山の慶讃テーマは「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう」ですが、そのテーマを協議する委員会も若い方々が議論し合って生み出したものでしたね。施策の生み出し方について、宗門自体もひとつの転換期にきているということでしょうか。それに対して教区もどう反応し、アクションを起こしていくかということが今後課題になってくるのではないかということを聞きながら思いました。  そういう中で、北海道教区の教化ということになった場合には、具体的にどういうこととして見られているでしょうか。  当初この北海道の慶讃法要は、「開教百五十年」というような名称の中から議論が始まっていくのです。私は北海道教区に戻って30数年になりますが、いわゆる「北海道教区の歴史というのは、150年前に現如上人の渡道を持って開教された」というふうに一応は言われてきました。しかし私の場合、そこからは北海道教区がどのような教化の歩みを進めてきたのかということを、肌感覚として受けとることはできませんでした。  それでは、どこで感じてきたのかといいますと、私の場合は北海道教区に戻ってきた30数年間に、出会った先生や先輩たちの声・歩みであるとか、力動性みたいなものによって教区教化というものを感じてきたということが一つあります。先ほどの話で言うと、「北海道教区はどういう教区ですか」と聞かれたときに、私であれば「教研と教化本部のある教区です」そして「青少年教化を一生懸命やる教区です」と、こうお伝えいたします。歴史伝統のある教学研鑽の場というものを持ち、教区教化は教区人の手で行っていく。そのような「教研」「教化本部」そして「青少年教化事業」を立ち上げていかんとした先輩たちのエネルギー・精神というものが北海道教区の開教のこころであり、宗祖の立教開宗の精神が北海道の地に届き、根差し華開いたのではないかと思うのですね。 ―そのように聞かせていただくと、このサブテーマから受ける印象が大分変わってくるような感じがしますね。  親鸞聖人の立教開宗の精神とは何であろうかと改めて思ったときに、「浄土真宗という教えは、痛ましい世の中にあって痛ましい生き方をしていく者にお念仏が届けられている」と、私はこのように考えるのですけれども、その痛ましいと言ったときに、それは「昔が痛ましかった」という話ではないのですね。  たとえば、私の暮らす黒松内町の隣は寿都町がありまして、今まさに核のゴミの最終処分場の問題で、町が分断されつつあるということがあります。推進派もいれば反対派もいる中で、町が分断されていくのですが、きっとお互いがふるさとを思って、そして未来を案じて、推進すべきだとか反対すべきだという議論の中で、分断を起こしていくということがあります。それが引き金となりマイノリティ、貧困、弱者、誹謗中傷といった問題が惹起していきます。こういう現実に対して「痛ましいな」というような、人のあり方というものが映ってくるんですよね。この痛ましさには、当然核ゴミの問題ですから国策というものに翻弄されていくという現実もあります。  そういう意味では痛ましい現実が今、目の前で繰り広げられているということを思うと同時に、過去においても常に真宗という教えが時代社会に届けられ続けていったということがあると思います。宗祖の教行信証執筆をもって立教開宗というならば、その痛ましい世にあって痛ましい生き方をするところに、浄土真宗を顕現せんという願いがあったのだと思います。  北海道教区においても、いわゆる開拓開墾において非常に苦労された先人、そして先住民族、そして渡道して来た人々等、その歴史の中で「虐げられた人も、虐げた人も痛ましいのだ」というようなところに宗祖の立教開宗の精神・浄土真宗が届けられてきた。そこに「開教」という意味を見いだしていきたいと思うのです。歴史をどこから区切るかということではなくて、常に痛ましい世にあって痛ましい生き方をする者に教えが届けられ続けている。そして、そのときの人々がどういう場を開き、どのようなアクションを起こしていったのか。そのアクションのもとになる精神、それこそが宗祖の立教開宗の精神でなかったかということを一つ考えさせてもらっています。  ですから、「開教の歴史をかみしめ」というのは、連綿と続く「開教」です。その中にあって、先人たちがどういう現実を身に受けながら、どう立ち上がってきたかというようなことを一人ひとりが今かみしめて、これからどういう北海道教区像というものを描いていけるのかということを考えていく。そういうテーマなのかなということを思います。  30年ほど前でしょうか、イラク戦争が勃発したときに、我々は初めてテレビで映像として戦争というものを目の当たりにしました。映画でもドラマでもない、まさに本当の出来事として地上を無差別に爆撃していくというさまを見たときに、衝撃を受けるわけですよ。こんな悲惨なことが起こってはならないということで、シュプレヒコールをやろうかとか、何か訴えようかとか、署名活動しようかとか、当時の青少年のメンバーが集まってそういう話題を語り合うのです。すると、当時の青少年指導主任が「子ども会やろう!」と、こう言うのですね。そのときに、説明はいらなかったですよ。カクカクシカジカだから子ども会をやるというわけではなくて、自らに起こったその痛みとか、平和への希求とかですね、それが「子ども会やろう!」ということに直結していくのです。  だから、皆で理屈を練って「こうやりましょう」というよりは、ぱーんと「子供会やりましょう」ということで、そこにみんな納得していくというか、腹に落ちていくということがありましたね。それが何かとても私にとっては印象的な、北海道教区に青少年教化が根付いていくような精神の発露というものがそこにはあったということを覚えています。 ―ありがとうございます。私たちが歩むべき道を、本願念仏の仏道というところに見いだされた宗祖の立教開宗の精神というものが、いつの時代であっても、そこから一歩を踏み出すはたらきとなるところに今回のサブテーマの示唆をいただいたと思います。  最後に記念事業部会について、現時点で取り組んでおられることをお伝えいただけますか。  そもそも「記念事業部会」が設置された経緯としましては、この慶讃法要が終わると、おそらく蓮如上人の五百五十回忌まで25年間隔が空くのです。若い方々が今回の慶讃法要を経験しないままでいると、大きな法要というものを未経験のまま蓮如上人の五百五十回忌を迎えてしまうということになります。そこでぜひとも慶讃法要を経験してほしいという意味で、若い人たちによって何かできないだろうかということで「記念事業部会」が設置されました。それでいざ「今どんな記念事業をやりたいか」というようなことを語り合っていったときに、北海道教区の若い方も「お寺やご法座はこれからどうなっていくのだろうか」とか、「人が少なくなってきた。お寺に多くの人たちが集ってくれるだろうか」というような、お寺の未来に対する不安を抱えているわけですね。  そういう中で、「お寺がどうなっていきたいか、どうありたいか」ということを真剣に考えつつ、その方途として現時点で検討しておりますのがSNSの活用法であります。現在コロナ禍ということもありますし、その教化活動の一助として、若い方のまさに豊かな発想の中でSNSを駆使して、浄土真宗の教えを広くお伝えし、本当にお寺が人の集うことのできる場所になっていくことを具体化していこうという取り組みをしております。その他にも、記念事業という意味では、今後20年残っていけるようなレガシー(遺産)というようなものを何か表現できればと思っています。いずれにしましても、時代は若い人によって切り開かれていくという意味では、その若い人たちに大きな期待をかけて一緒に取り組ましてもらえたらなと考えています。
―2008年に『アイヌ民族差別問題に関する学習資料集 共なる世界を願って』が発刊され、2009年度から2年間にわたって、その学習資料集を用いた学習会「アイヌ民族差別問題に関する特別伝道(アイヌ特伝)」が全組で実施されました。名畑さんには、特伝の大谷派講師としてお関わりいただいた他、慶讃委員会の前身である基本方針作成委員会から始まり、準備委員会の委員を経て、慶讃委員会では開教学習資料作成部会の主査を歴任いただいております。  まず、教区の慶讃テーマ「共なる世界を願って」についてお聞きいたします。学習資料集の書籍名としてこの言葉が掲げられたのが初めてだったと思うのですけれども、それからもう10年以上経ちました。これまで北海道教区では、この「共なる世界を願って」の言葉のもとに種々の取り組みがなされてきましたが、逆にこの言葉が今回の慶讃テーマとなったときに、非常に馴染み深い言葉になっているだけに、何かそこに危うさといいますか、具体的に言えばこの言葉が私たちの「問い」というものになるのかと。一つの答えとしてこの言葉を掲げているのではないのかと。そのようなことが自分の中で起こってまいりまして、まずは今一度、このメインテーマ「共なる世界を願って」という言葉の根源的な意味合いというものをいただき直さなくてはいけない状況なのではないかと思っているのですが、名畑さんはどのようにお考えですか。  今、そういう「馴染んでしまう」という事柄についての問題提起をしていただきましたけれど、その言葉を聞いていろいろと考えさせられたことがありまして、私が専修学院の職員をしていたときに、信国淳先生が「人間は言葉を殺す存在だ」と本の中で言われていたのが非常に印象深く残っています。「言葉を殺す」ということは、「馴染んでしまうことによって、その言葉の響きを失ってしまっている」という問題提起でもあります。今回のテーマを策定するときにも、いろんなテーマが出されたのですけど、その中でご門徒さんが、「ありきたりだな」という言葉を言われたのですよ。つまりいろんなテーマを出されると、出したそのテーマが、聞き慣れてしまっていくという問題があるのだなと思いながら、ご門徒さんの「ありきたりだな」という言葉を聞かせてもらいました。もう一つ昔から言われていることなのですけど、蓮如上人の『御一代記聞書』に「おどろかす かいこそなけれ村雀 耳なれぬれば なるこ(鳴子)にぞのる」(聖典886頁)という、あの短歌が「言葉を殺す存在」という問題なんです。つまり、聞き慣れてしまうという問題がそこにはあって、今回もう一度テーマとして「共なる世界を願って」を提出したときに、学習資料集の題名にもなっているし、聞き慣れてしまっているものだから、それと向き合うことができないという問題でしょうね。  「慣れる」「わかる」ということは、「もうこれは問わなくていいのだ」ということになってしまうという人間の資質・知性の問題がそこにあって、逆に言うと「村雀~」もそうだし「人間は言葉を殺す存在だ」といった言葉も、みんなそういう人間の知性の正体を暴いたような言葉、教えであると思います。ですから、改めてこの「共なる世界を願って」という言葉を提出したときには、もう一度この言葉の意味とか願いというものを考えてほしいし、それから向き合ってほしいという、そういう意味合いで提出させてもらったわけです。  この「馴染む」という問題で少しヒントを得たのですが、自分たちがお坊さんの生活の中で「馴染む」という問題を考えるときに、「儀式と教学」という問題に発展していくと思うんですよね。「儀式」というのは「馴染ませていく」ようなものです。「正信偈」や「和讃」もそうだけれども、「馴染ませていく」というのが一つの儀式のあり方でもあるし、馴染まなければ中々その言葉について考えることがないものだから、とにかく最初は馴染んでいくことから始まります。「大乗読誦」と言われる「誦」ということが「声に出して読む」という、「馴染ませていく」ということでしょう。「教学」というのは逆に言うと馴染んでしまった言葉をもう1回掘り起こしていくような、新たな響きを持って聞こえてくるようにという形で、「教学」というものが位置づけられるのだと思います。七高僧の教学もそういう響きを回復せしめた歩みと言っていいでしょう。そういった意味では、今、提起された問題というのは幅広く考えると「儀式と教学」の問題ということに関係してくるのかなと思います。僕もそうなのですけれど、毎日毎日月参りで正信偈をお勤めするでしょう。ほぼ考えないけれど、時々言葉が頭に引っかかったときにお勤めを間違えることがありますよね(笑)。それは馴染んでいる事柄を、もう1回掘り起こしていこうとしたときに、「これはどういうことなのだろうか」と考えて、それがまた学びに繋がるというか、後で意味を調べてみたりとか、いろんな先生の本を読んでみたりとかして、自分が疑問に思ったことをもう1回こう考え直すということがその中で開かれていく。疑問が関心になり、その関心が学びを求め深めていく。そのようなことが、いわゆる「儀式と教学」というものの関係だろうと思っています。 ―ある意味、馴染んでいくということがなければ、それを深めるということはできないということですね。  特に現代は、新しい言葉の方が刺激があるものだから、とにかく「新しさ」というものを求めてしまうけれど、馴染んだ言葉の中に生き生きとした言葉の響きがまた新しく蘇ってくるということが大事なことなのかなと思っています。それは清沢満之がそうなのですよね。清沢満之は、ある意味では西洋近代の思想の中で、もう一回古い言葉を読み直していったという作業をしてくださった方ともいえますが、そういうことを考えるとそんなに古い言葉ではないけれども「共なる世界を願って」という、1回使われた言葉をもう1回使い直すというところに、実は大事な事柄があることを表現したかったということもあります。 ―では、この「共なる世界を願って」という言葉について、耳慣れた馴染んだものから、もう一度言葉の響きを取り返していくことが今まさに必要とされている中で、「共なる世界」というものに漠然としたイメージを当てはめながらこの言葉を読んでしまうということがあるように思うのですが。  大事なことは、「世界を願う」という表現ですよね。お気づきになったかもしれませんけれども、蓮如上人の御遠忌のテーマが「バラバラでいっしょ 差異を認める世界の発見」というものでした。「世界」と「発見」という言い方で、非常に大事なことを表現しておられます。「違いを認め合いましょう」ということは常に世の中でも言われますけど、真宗大谷派は「世界の発見」という形で提出したわけです。「お互いの違いを認めましょう」というような事柄で言うと、そこに「誰が誰を認めるのか」という関係が生まれてきます。「世界の発見」ということになると、「誰が誰を認める」という人間関係の中の事柄ではなくて、「世界と出遇う」という形の表現をしているということが非常に大事なことなのです。「世界を願う」なら「誰もが出遇う世界」として表現されている。だから今回も「共なる世界を願って」と、願う世界として表現しているということは非常に大きなことかなと思います。ただ、その「願う」という言葉にも馴染んでしまっているという問題もありますが。  「願う」というのは、課題が見えたときに「願う」ということが始まるのであって、課題が無かったら願わないのですよ。それと同時に「願う」ということには、我々の理想の中から願いを出発させるのではなくて、どうしようもない現実から出発したということが「願う」という言葉にはあります。その辺のところが、大谷派の中で「願う」という言葉がよく使われるものだから、意味合いが曖昧になってしまっているかもしれないですけれども。教学的に言うと「衆生の志願」という言い方になりますね。「行巻」に「しかれば名を称するに、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまふ」と出てくるところの「衆生の志願」というものが、この「願い」という事柄だと思います。その「衆生の志願を満てたまふ」というときに、「満ている」は満足するということですけれど、普通の世間の考え方から言えば願いが満足するときは願いが実現したときだけですよね。願いが消えるときです。しかし「衆生の志願を満てたまふ」というときには、志願そのものにその人がなっていくことによって満足するという意味であって、決して何か実現したことによって満足するという意味ではないのです。  大谷派の中で「願う」という言葉が盛んに使われたり、それが一つのキーワードみたいな形になったりするときに、軽々しく使うべきではないとは言いませんが、「衆生の志願を満てたまふ」というところまで意味を開いていくことが大事なのです。如来の本願は衆生の志願を開く。それが如来の本願の目的であって、衆生の志願と如来の本願を混同してはならない。衆生の願いというものは最終的には「いのち終わってもなお願う」ということでしょう。梶原敬一先生が、こういった言葉で表現していたのですけれど、「可能性を持っていのちを終わっていく」ということがある。人間死ぬときは可能性が全くない状況でしょう。可能性を持っていのちを終わっていくという言葉で表現されたので、これは非常に面白くて、いろんなことを考えさせられます。 ―「世界を願う」ということと、何かそこで繋がってくるような感じですね。  ですから、その先輩先人の生き様を見ていたら、最後の最後まで願いを持って生きてこられたというものが伝わってくるのであって、自分には全く願うものがないのだけれども、そういう人たちによって自分自身の中に引き起こされてくるものがあるという。しかしそれは、「理想的な世界」というものではないということだけは注意しておかなければならないと思います。仏様の世界、浄土の世界と言ってもいいのだけれども、それは決して理想化された世界ということではなく、むしろ現実にはたらき続けてくる世界だと。その現実は、やるせない現実とか悲しい現実でもあるのですけれど、そのことをある意味で糾されるようなはたらきとして、「共なる世界を願って」ということがあるのだということです。それと、現実の問題というものと全く切り離して言ってしまうと、まず理想化されてしまう。しかも心の問題に矮小化してしまう。教行信証で言うならば「自性唯心に沈みて、浄土の真証を貶す」ということでしょう。そこが「願う」という言葉の中に、私たちの大谷派の現実であるとか、そういうものがそこから課題としてスタートしていくということだと思います。 ―サブテーマの「北海道開教の歴史をかみしめ一人ひとりの立教開宗へ」については、どのような願いから作成されたのでしょうか。  サブテーマを作成するときに、この「かみしめ」というのは、金石潤導君が作ってくれた言葉で、非常に面白い言葉だなと思っています。最初聞いたときは「かみしめる」ってなんだろうかと思いましたが、『教行信証』の中で言えば、「謹んで浄土真宗を案ずるに」の「案ずる」という言葉と一緒だなと思って聞いていました。あるいは『歎異抄』の「ほぼ古今を勘うるに」という言葉がそれにあたると思います。  ですから、「歴史をかみしめる」ということの中に、私たちは過去の歴史についていろいろと価値判断をしてしまうわけですが、「歴史を判断するということを一旦保留する」という意味合いがあるのかなと思うのです。だから、よくよくかみしめるということは、自分のところにまでなってきた歴史というものを、判断や評価を越えて、そのことをもう一度受けとめ直していくということだろうと思います。  そして「一人一人の立教開宗へ」という言葉に続くのですが、今回の慶讃法要は「御誕生八百五十年」と「立教開宗八百年」が併催される中で、できれば「立教開宗八百年」の方に重きを置いていきたいと思っていまして、それは今「立教開宗」という事をもう一度いただきなおす時に、どうしても『教行信証』に学ぶことが必要になっていくということがあるからです。同時に「立教開宗」という言葉は、親鸞聖人が立教開宗されたというだけはでなしに、私たちのところに本当に教えが立っているか、そして宗が開かれているかという問題がそこに引き起こされるのです。だから「一人一人の立教開宗」という時には独り立ちしていくような、そういうものが私たちの「立教開宗」でなければならないと思います。  また、それと共に「立教開宗」の中に「開」「教」という言葉が入っていますが、「開教」という言葉をもう一度、現代的な意味で蘇らせていくような意味として考えていかなくてはならないと思います。「開教」ということを定義した時に、誰でも前提として「場所」をイメージするでしょう。全く浄土真宗の土壌のない場所に入っていって「開教」をするという、いわゆる未布教地に対して布教していくという意味が、「開教」という言葉の定義なのですけれども、それが非常に政治的な意味合いで使われてきましたし、今も使われているのです。それを、もう一度「開教」という言葉を生き返らせるという意味で「立教開宗」という言葉を置き直したということがあります。  ですから、「北海道開教の歴史をかみしめて」そのことを通して「一人一人が立教開宗していく」という、そういう事柄をつけなければ、「開教」という言葉が、今まで私たちが持っている問題点みたいなものから超えられないという様なことがあって、このようなサブテーマにしたわけです。その「かみしめる」という言葉が面白いのは、味が出るまでかみしめるということですよね。スルメをかじっているような。鵜呑みにしない、味が出るまでかみしめる。その味は一人一人に味が出てくるということですよね。そういうことも含めて、もう一度そのテーマを考えていただけたらいいと思うのです。  『月刊同朋10月号(2021年)』にも書いたのですが、違星北斗という大正時代のアイヌの歌人がいまして、僕が北海道に来る前にその方の『コタン』という歌集を持っていたのですが、こういう言葉を言われているのです。    耳朶(耳たぶ)を破って心臓に高鳴る言葉が「アイヌ」である。言語どころか「アイヌ」と書かれた文字にさえハッと驚いて見とがめるであろう。(中略)かかる気づかいを起こさしめた(中略)第一義は何であろう?―アイヌでありたくない―と云うのでない。―シャモ(和人)になりたい―と云うのでもない。然らば 何か「平等を求むる心」だ、「平和を願う心」だ。(アイヌの姿)  偉星北斗が訴えたのは、自分がアイヌを嫌いなわけでもなく、和人になりたいわけでもない。「アイヌ」という言葉を聞いて耳が突き刺され鼓動が高鳴るのは、「平等を求むる心」「平和を願う心」と言われたことに、当時ものすごく衝撃を受けました。また最近は、その違星北斗の本のサブタイトルに「アイヌと云う新しいよい概念を」という言葉が付されたものがありました。つまり、「アイヌ」という言葉が差別的な形でずっと使われてきたということがあります。たとえば、朝の情報番組でアイヌ女性の活動が特集された際に、「アイヌ」という言葉にかけて、非常に差別的に使われてきた「あ、犬だ」という言葉を使われたということがありました。このような形で、「アイヌ」という言葉を聞いた時に感じるネガティブなイメージから、「新しい良い概念に」という。つまり言葉そのものを変革させようとされたのが、違星北斗の願いであったのかと思います。そういう願いに従って、ずっとアイヌの方々は「アイヌというのは誇りうる人間である」という意味をもう一度回復することによって差別そのものを超えていこうとされたということです。それと同じように、私たちは「開教」という言葉の持っている多様な問題を自覚化した上で、もう一度その言葉を蘇らせるという意味で「立教開宗」という言葉が存在すると思うのです。 ―馴染んできた言葉を、今一度掘り起こして受け止めなおすということは、言葉自体を自分の中で生まれ変わらせるという能動的な作業なのですね。どうしても「共なる」とか「違いを認める」という方に目が行きがちなのですが、「世界を願う」背景として破闇満願の文章を引かれたように、「衆生の志願を満たす」というところに主眼が置かれることによって、このテーマの持っている意義が明確になると思いました。  現実的に世の中に、それこそ生き難いと感じているたくさんの人たちの一番奥に「世界を願う」ということがあると。そういう言葉に触れない形で、自分のつらさとかその悲しさとかいうものを、なんらかの形で自分が壊れるぐらいになってしまっているけれど、こういう言葉が世の中に出ていったときに、そういう人たちに何か響くものがものすごく強くあるのではないかなと思っているのです。馴染んでいる方は全く響かないけ れど。  そういった意味では今回の「共なる世界を願って」という言葉も、そんなに温い言葉ではないはずです。本当に厳しい言葉なのだと思うのです。その厳しさを感ずるようなものが私たちの生活実感の中にあるかどうかということだと思うのですよ。とても厳しい言葉だということを同時に言っておかないと、「共なる世界」という言葉から、ものすごく夢見る世界をイメージしてしまう。現実に根ざした言葉から「願う」ということが生まれてくることがあって、そこからいろんな人と共有できることがあるのだろうと思うのですよ。厳しさの中に温かさを感じるのであって、最初からぬるま湯に浸ったような言葉ではない。智慧と慈悲の関係がそうですよね。智慧の厳しさの中に慈悲の温かさを感じるのであって。 ―いわゆるそこから出てくる「願い」というのは個人の何かを満たすような「願い」ではなくて、「世界を願う」というところに繋がってくるような「願い」だと。  現在、北海道開教学習教材作成部会の主査をさせてもらって、そこで「フィールドワークガイドブック」というものを作成しています。アイヌ民族差別問題を学ぼうというときに、基本的には「人」「もの」「場所」というコンセプトがあるのですけれど、「人」「もの」「場所」を紹介するという形で何か導入するようなものがなかったら、知識だけでは学びが個人的になってしまいます。そのガイドブックの構想自体は、「アイヌ特伝」の後に何らかの形でこの教区・宗派全体にそういう問題を開いているようなものがなければ、個人的な繋がりの中で物事を考えたりしてしまうので、それだけで終わってはいけないということから生まれてきました。そのような取り組みの中で、北海道教区では「北海道開教」の問題は「北海道の人間の問題だけではない」ということが自覚化されてきて、これは「教団問題」だということを主張してきました。つまり「教団問題」だということは、「教団全体の問題として共有しよう」ということです。そういうものの手がかりになるようなものが必要だということで企画されたのが今回のガイドブックで、ある意味では僕の置き土産みたいなものだろうと思っています。  それと同時に「アイヌ特伝」のころから、「大谷派とアイヌ民族の出会い直し」ということが提唱されつつあります。この「出会い直し」という言葉は、最初はおそらく講義の中で僕が言ったのではないかなと思うのですけれど、そのときに結城幸司さんが聞いていて、「出会い直し」ということをさらに取り上げてくださったのです。「出会い直す」という言葉も本当に面白い言葉で、今まで出会ってきた内容というものを課題化していって、その中で「もう1回出会い直していく」ということだから、未来的な事柄にもなりますよね。それは今まで自分たちが作ってきた歴史というものをもう1回かみしめて受け止めて、これから自分たちがアイヌ民族の人と共にどういう歴史を作っていくかという問題です。僕は生まれが北海道の人間ではないですが、北海道に来てわかったのですけれど、私たちの歴史観は根本的に和人史観で語られているということがあります。よく私たちは「北海道は歴史が浅い」という言い方をしますが、「北海道は歴史が浅い」ということは、その言葉の中に北海道にずっと住んでこられた人のことが全く頭の中に入らないような言葉としてあるのです。そうすると、北海道の人たちが北海道の歴史を知らないということになります。これは琉球沖縄もそうですけど、沖縄は沖縄で独自の歴史があるわけです。沖縄も北海道も同じようにそれぞれの時代区分みたいなものがあって、明治以前にも北海道の歴史があるのだけれども、それを学び知る機会はほとんどありませんでした。だから今まで自分が北海道に住んでいるにもかかわらず、北海道の歴史を知らないということは、逆に言うとその歴史から自分が疎外されてしまっているということです。結城幸司さんは、小学校へ行って話をするときに最初に何の話をされるかというと、一番身近な地名の話をされるそうです。いろんなところにアイヌ語の地名が残っているということを手がかりにしながら、誰が最初に住んでいたのだろうかというところから入っていくと言うのです。そうすると、そういうことが「北海道の歴史を考える」ということの大きな手がかりになってくると思うのです。そう言った意味でいうと、市町村合併でだいぶ名前が消えてしまいましたけれど、身近にアイヌ語の地名が残っているということは、そこに間違いなく人がいたということです。アイヌ語の地名の特徴っていうのは、誰が行ってもそこに行って生活できるようなナビゲーションみたいな言葉です。ここには何があるとか、ここは恐ろしいところとか。たとえば旭川の「神居古潭」はアイヌ語で「カムイの村」という意味ですけど、「神聖な場所」という意味もありますが、別の意味で言うと「行ってはいけない場所」ということにもなります。「神居古潭」は急流だから、「あそこに行くと危ないよ」という指標となる言葉でもあるのです。このように、いろんな地域の残っている言葉を日本語ではなくて、アイヌ語で読み直したときに、ある意味ナビゲーションみたいな生活のはたらきがその地名の中にあるので、もう1回それも呼び起こしたら面白いと思うのです。 ―「出会い直し」ということで言いますと、今後の課題として「謝罪」ということについての問題提起があったかと思うのですが。  私たちが「謝罪」という言葉を聞いたときに、何か屈服しているようなイメージがある。しかし本来謝罪するということは、上に立っていたものが同じ場所に立つということなのです。同じ大地に立つということが謝罪であって、決して屈服することではありません。これも結城幸司さんから1回聞いたことがあって、本当に「国家に謝罪してほしい」というふうに言われたのです。先住民を支配してきたという問題について国に謝罪してもらえると、自分たちのやってきたことが生き返ると言われた。「これまでのアイヌ民族が何百年という形で虐げられてきて、それにずっと抵抗してきたような歴史が、謝罪してもらえることによって全部生き返る」という表現をされたときに、ものすごく面白かったのですよ。  自分たちは謝罪するかしないかだけを考えるのだけれど、謝罪するということがどういうものをもたらすのかということも考えなければなりません。謝罪することは同時に相手を尊敬するということです。尊敬することがなかったら謝罪ということは絶対ありえないのです。奨励内局巡回で、「何年かかってもいいから大谷派はアイヌ民族に謝罪すべきである」と問題提起したことがあるのですけど、何年かかってもいいからというのは、その事柄が本当に浸透していって、誰もがみんな納得する形で謝罪してほしいということを言ったこともあるのです。大谷派とアイヌ民族との出会い直しというときに、普通はものすごく非対称な事柄でしょう。大谷派は北海道開拓開教を率先してやってきたということがあって大谷派とアイヌ民族の出会い直しと言っているのだけど、実は一番根っこに隠れているものがあります。それは大和民族とアイヌ民族の出会い直しです。ウポポイ(民族共生象徴空間)の基本方針を見てみたらわかるのですが、大和民族という言葉は一切出てきません。「民族共生象徴空間」といいますが、大和民族といった時点でもう批判が間違いなく出てくるから、そのときにこちら側の位置みたいなもの全く出していないのです。共生するということの具体的な内容は、民族同士が共生するということです。でも本当に共生するという意識がこちら側にはない。だからアイヌ民族だけに焦点を当てて、アイヌの自然の共生というものを取り上げたり評価したりするのだけれども、根本的には民族同士が共生するというものが日本人の中には全くないということが問題なのです。  以前、秋辺デボ(日出男)さんが「日本人は民族を失っている民族喪失病だ」と言われていたのですが、つまり、自分たちが普段何民族であるかを意識することはないでしょう。「民族を意識することがないから、民族のことがわからないのだ」と言われたのです。すごく衝撃的な言葉でした。日本人というのは民族を失ってしまっている。なぜ失っているかというと、事柄にすると明治から昭和にかけての戦争があったからだと思うのです。日本は民族主義みたいな形でずっと戦争をおこしてきたということが背景にあるから、民族ということを言えば、何か戦争と繋がってしまっている様なところがあって、それで民族ということを失ってしまっている。しかし、アイヌ民族・先住民族の立場ということを考えたときに、どうしても「大和民族」のところに戻らなければ解けないのではないかと思うのですよ。 ―失っているというのはある意味、意識化されていないということですね。  「意識化されていない」と言うとやわらかく聞こえますけど、それを「失っている」と言った方がきつい言い方になるのですが、だからこそいろんなこと考えさせられるということがあります。たとえば、コマーシャルとか報道とかの中で「日本人」という言葉が出てくると、この「日本人」の中に「アイヌ民族」が入っているだろうかと考えるようになりました。そのように意識して聞いていくと、大きな枠組みの中ではほとんど入っていないのです。「日本人」というと、ほとんど「大和民族」を内容にしていることがわかります。「日本人はすごい」と言ったり、「誇らしい日本人だ」と言った時にはアイヌ民族は入っていない。大和民族だけのことを考えているのだけれども「日本人」と言ってしまうことも問題があるかなと思います。 ―知らず知らずのうちにマジョリティの立場に立っているということが常識化されている。つまり、「日本人」の中に「アイヌ民族」を入れないことによって、「共にあり続けてきた歴史」、それは「痛みを与え続けてきた歴史」というものになりますけれど、その歴史が隠される、もしくは対立しか生まないような、未来を開くものになっていかないということがあるのですね。それに対して結城幸司さんが、それを「生き返らせる」と表現されたということがこれからの課題ですよね。  ですから、これからの課題は「出会い直し」の歴史を作っていくということです。それは今までの歴史を深くかみしめなければ作れません。目の前の人、ご門徒さんと一緒にずっと北海道で暮らしてきたっていう歴史を掘り起こしていかなければならないということでもあるのです。  うちのご門徒さんが書いたもので、生まれてから明治44年ぐらいまでの日記があるのですが、その中にアイヌ民族の人がたくさん出てきて、「どれだけ助けられたか」ということが書いてあります。古屋達三という人ですが、その人が開拓に入っているときに旭川のアイヌの家に泊まったり、その旭川のアイヌの紹介で、名寄のアイヌに本当にお世話になった、という文も出てきます。実際には開拓に入ってきた人の中に、アイヌ民族にお世話になったということがすごくたくさんあるのですけれど、それはあまり表に出ていないものだから、1回そういう歴史を掘り起こしていくことによって、むしろ「一緒に生きてきた」という部分もピックアップしていかなければならないかなと思うのです。それが、もうほとんどそういう感覚が失われてしまって、意識されなくなってしまった。これは非常に差別的な事例ですが、うちの町でアイヌの人がおられるのだけれども、その人がちょっと事件を起こしたことがあって、そのときにうちのご門徒さんが「ああ、あれはアイヌだから」と言われたのです。そのときに「アイヌ」が出てくるのですよ。アイヌだからという言葉の中に何かの意味を込めて言っている。「ああ、ここに出てくるのか」と思いました。全国各地にアイヌ人はおられるのだけれども、それがほとんど表に出てこなくて、密かに暮らしておられるということですね。無理やり表に出すということではありませんが、それこそ最近では「サイレントアイヌ」と石原真衣さんが表現されたような、そういう人たちまで意識できるかどうかということは非常に大事なことかなと思います。
―北海道教区にとりましては、「立教開宗」ということを念頭に置いたときに、「北海道開教」という問題について、避けて通ることができないこととして取り組んでいます。そういうことの中で、この教区慶讃テーマを深めていくということを目的としまして、これまで教区の中からテーマ選定にも関わられた3人の方にインタビューをしてまいりました。宗門では、部落差別問題やアイヌ民族差別問題に関わりを続けてこられた先達に泉惠機先生がいらっしゃいましたが、お亡くなりになられた現在、泉先生のお仕事を引き継がれた訓覇浩氏に、ぜひお話いただきたいということで、北海道へいらしていただきました。  まず、訓覇さんがこのような問題に関わられるようになった経緯から少しお話をいただきたいと思います。 訓覇:今回のインタビューのお話をいただき、「アイヌ民族差別問題」というものが、私自身の中で差別問題、大谷派における解放運動ということを考えていく根幹の一つになっているので、それをもう一度自分なりに振り返らさせてもらえるという意味で、大変感謝をしております。また当然、泉先生がお元気ならば、泉先生がちゃんとお話されるところだと思うんですけれども、いまおっしゃったように、泉先生がおられないというところの中で私に声をかけてくださったことも、個人というより課題の連続性ということで事柄を見てくださっているんだなあと、ありがたく思いました。  そういうことで、私が差別問題に関わるようになった経緯ということからお話しさせていただくと、同和推進本部(当時)に非常勤嘱託として入ったのが1989年4月なんですが、この年というのは1987年に起こった「全推協叢書『同朋社会の顕現』差別事件」に対する、「真宗大谷派糾弾会」がもたれた年です。この糾弾会は、私の祖父・訓覇信雄が差別発言をしたことから始まっています。私はそのころ、大谷大学で起こった「差別ビラ事件」への関わりや、大学のゼミの先生が廣瀬杲先生だったのですが、廣瀬先生が、「部落解放基本法制定要求国民運動」の京都府実行委員会委員長を引き受けられ、大学の講義でも積極的に部落解放運動について語られており、部落差別問題や部落解放運動と真宗、という課題に出会わせてもらった時期でした。修士論文でもそのような課題を取り上げており、さらにそういうことを大谷派教団との関わりのなかでも考えていきたいと思っている時でしたので、この「『同朋社会の顕現』差別事件」の惹起は、たいへんショッキングな出来事でした。身内が差別問題を起こし、周囲にも大きな迷惑をかけるということは、家族にとって大変なことでした。特に父親は、大谷大学での仕事もありましたし、かなり悩んでおりました。私も、これまで学んできたことが、頭ではわかっていても、身内が差別事件を起こすという現実の前で、感情としてこころがついていかない、そういうことに悩んでおりました。その時に、前を向く大きなきっかけを下さったのが、泉惠機先生でした。  私は、そのころ、京都市内の私立高校で非常勤講師をしながら、本山の「同和推進要員研修会」などを受講していたのですが、同和推進本部で働くという選択を泉先生が与えてくれたのです。なにか荒療法のようなことなのですが。それで、父親に相談したところ、大反対をされました。父親にすれば、自分の親のことで、本山に大変迷惑をかけているときに、息子が、しかも直接そのことと関係するところにお世話になることは、さらに迷惑をかけるし申し訳ない、非常識だ、という気持ちが強かったようです。そこで、苦し紛れに言い出したのが、「親父がいいというなら勝手にしろ」ということでした。それをそのまま祖父に話したら、意外にも返ってきた言葉が、「同和推進本部に入って、本当の人間解放を勉強しろ」という言葉でした。変な言い方になるのですけれども、差別発言で問われている者が、問われる中で感じたことを、孫である私に「きちんと勉強しろ」という言葉で背中を押してくれたのです。そういうところにも、当時の同和推進本部にいた橘了法先生や、泉先生の、差別発言の当事者である祖父との丁寧な対話があったのだなと、今更ながら思い起こされます。でも、なんかそのことは、さきほど、変な言い方、と言いましたが、変なことではなく、極めて必然的なことであったのではないかと、いまは感じております。そういうことで、泉先生、そして差別発言の当事者である祖父が縁となって、私は、大谷派という器の中で、差別問題について学んでいく大きなご縁をいただくことになりました。何かいきなり、個人的なことで申し訳ないのですが、私にとっての差別問題との出会いみたいなことですので、お話しさせていただきました。 ―祖父信雄氏の差別発言から、大谷派の教団としての解放運動に関わられていく中で、どのようなことをお感じになられましたか。  私は大谷派における解放運動というのは、「問われるもの・願われるものとしての解放運動」というふうに受け止めています。具体的には糾弾という形での問いかけを受けることから始まり、そこへ帰っていく。当然その問いかけというところには、深い願いがあります。だから問われて取り組むと言ったら、何か受動的に聞こえるかもしれないけれども、自らにかけられた問いかけというのは、解放への願いが凝縮されているからこそ厳しい言葉になるわけで、そういうものに「応える」ということが大事だと思っています。そしてこの「応える」ということほど能動的な営みはないとも思っております。この「応える」は「答える」と使い分けているんですけども、「答える」というのは、答えを出した途端に問いがもう要らなくなる答え方だと思うんですね。しかし、糾弾に対して「応える」というのはそういう「答え」ではなくて「相応」する。つまり「糾弾への回答」ではなくて、「糾弾への呼応」ということになると思います。だから、糾弾会で問われたことに対して「皆さんのおっしゃることをよく勉強し、そしてもう二度と皆さんとお会いしなくていいように頑張ります」そんな答え方をしてしまうんだけど、そうではなくて、その問うている人の顔を本当に抱き続けていくような運動、応えることでますますその人と願いに出会っていくような運動、それが大谷派における解放運動でないのかなと思います。  最初の糾弾会では、訓覇信雄本人の口からは「差別するつもりはなかったが、誤解を招く言い方だった。誤解を与えたことをお詫びする」と、滔々と言い訳が出てくるんですね。それに対して「それは、私たちの提起を正面からは受け止めていない」、「差別するつもりはなかったと言うくらいに、自然にあなたの中に差別意識が浸透している。それが無意識のうちに表面に出てきているのではないか」、さらに、「なぜ自己を問うている自分の口から差別発言が出てくるのか」と問われ、それに対して、「菩薩の七地沈空の難」ということを出して説明しようとするのですが、その時、「皆さんは差別発言をするときは、非常にわかりやすい言葉でするのに、なぜその理由を問うたら、そのような難解な言葉になるのか、自分の言葉で話してほしい」と問いかけられるのです。私は、本人は待ったなしのところで、そういう声が自分に向けられる中で、言い訳をしようとしている自分というものに気がつき、向き合ったんだと思うんですね。そして、一回目の糾弾会が終わってから、寺の裏山で二人でタケノコを掘っていた時に、ぼそっと、「大西のおっさん(糾弾の先頭にいた大西正義副委員長)は、俺のことを思って、あれだけきつく言ってくれているのではないか」と言ったんですね。その時は、「えっ、それまでどう思ってたん」と口に出してしまいましたが、高みからのお説教だと思っていたんですね。そこが祖父にとって一番のポイントだったのだと思います。難波別院輪番差別事件の際の糾弾に対して、自分の名前で宗派としての「回答書」を出し、それなりに評価されたりもした、しかし、本人の中で、この部分がずっと残っていたのだと思います。それが、自分が差別発言をして、否応なく当事者として糾弾の場に身を置き、差別する自分、それに言い訳をする自分を突きつけられ、やっと解放への願いが自分に届いたのだと思います。それが、「自分のために言ってくれている」という気づきだったのではないかと思います。それは、第二回糾弾会の時に、「親鸞聖人の同じ御同朋御同行の一人として、無我無心の純粋な願いとして、私の上に響いてまいりまして、私の従来の先入観というのは独断的な偏見であったということに気づかせていただきました。差別問題に対する指摘の底に、同じ人間としての痛みの心が流れておりますことを、直感的な感動として見えてまいりました。深い喜びとしております」という自身の言葉となりました。それは、差別するつもりはなかった、誤解を与えたことを謝る、と言っていた一回目の糾弾会での受け止めとは、全く違うものであったと思います。差別発言そのものは、もちろん多くの人を傷つけるもので、そのこと自体を弁明できるものではありません。しかし、問われたことに向き合う、そのことだけは、差別により人を傷つけた者が、そこからの歩みをはじめるために与えられる唯一のスタート地点であると感じさせていただきました。それは私自身を、歩みのスタート地点に立たせてくれるものでありました。  ちなみに、この糾弾会の後、宗派は糾弾と向き合うという取り組みをはじめますが、その学習の手引きの中で、「このたびの「真宗大谷派糾弾会」が訓覇氏の発言の差別性と問題点のみを問いただすのではなく、難波別院輪番差別事件を契機とした八回にわたる糾弾をはじめ、幾度にもわたる厳しい糾弾を受けながら、その糾弾の意味を、同朋会運動就中その思想的基盤とも言うべき教学のなかに確実なものとして着床させ得なかったことへの問いかけであることを、私たちは厳粛に受けとめなければなりません」と述べています。自らへの問いかけを受け止めるとはどういうことなのか、それに応えるとはどういうことか、その問いが、大谷派における解放運動の原点であり、どこまでも自分の学びの基底にしなければならないことであると思っております。 ―そういう中で、アイヌ民族差別問題に直接的に関われたのはいつからですか。 訓覇:それもやはり泉先生との出会いからです。泉先生は大谷派の差別問題の取り組みでは大変なご苦労をされながら、いろんな部分で井戸を掘った方だと思います。  私は最初、いま言ったように部落差別問題を勉強したくて同和推進本部にお世話になったんですが、泉先生の部屋を訪ねたときに、「アイヌモシリ」と大書きされ、アイヌ民族の姿がダイナミックに描かれたポスターが貼ってありました。1988年に北海道で開かれた、世界食の祭典の時のポスターだったと思うのですが、それを見て、「こんな問題まで関わらせられるのか、ついていけへんぞ」と正直思ったんですね。思い返すと、1977年、私が中学生のときに「大師堂爆破事件」が起こったんですけれども、祖父や父親にひっきりなしに電話がかかってきて、「本山がとてもひどいことをされた」という感覚が当時ありましたが、アイヌ民族という言葉もその時聞いた記憶があります。それは、アイヌ民族差別問題ということに対して、少なくとも良い印象を持つことにはつながらないもので、私の中でそこで思考が止まっていたように思います。同じころ、参議院議員選挙の全国区で、アイヌ民族の方が立候補されていたのですが、政見放送を見て、当選するわけがないのにと思ったことも記憶しております。アイヌ問題に対しては、そんなひどい認識でした。  そんななか、同和推進本部に入った一年目の秋に、泉先生から「アシリ・チェップ・ノミに連れていく」って、いきなり言われたんですね。そう言われたとき、「そんな早口で言われたってわからないですから、もうちょっとゆっくり言ってください」って言ったら、先生がゆっくり「アシリ・チェップ・ノミ、わかるか」と。早口だからわからないのではなく、アイヌ語だからわからない、しかも、それがアイヌ語であるということもわからない、そんな状態でした。そういう私に対して、「そんなことだから、何で北海道に行くのかもわからんやろうし、アイヌ民族のこととかも、どうせ知らんやろう」と。そして、「時間もないから、本も読むな、予習もするな、予習するだけ、行ったところで学べることの邪魔になる」って言われました。私とすれば、しっかり行く前に予習しろといわれるより楽ですし、なにより泉先生と1週間一緒に行動できるっていうことは、これはありがたいな、いろいろ学ばせてもらえるなと思って、そんな感じで北海道に来たんです。北海道を訪れるのは、高校を卒業した春に、友人たちとユースホステルを泊まり歩いて以来二度目でした。 ―泉先生に同行される形で来られたんですね。そこではどのような出会いがあったのですか。  その北海道で、私はある意味決定的な出会いをいただいたように思います。札幌で復活されたアイヌ民族の伝統的行事である、新しい鮭を迎える儀式「アシリ・チェップ・ノミ」に参加した後、阿寒のアイヌコタンを訪問し、豊岡喜一郎というアイヌ民族のエカシとお会いしました。まわりの人はキイチさんと呼んでいましたが、そこでいきなり投げかけられたのが、「あんた何系日本人や」という問いかけでした。私はわかりませんでした。そこでイメージしたのは、自分が北方系とか南方系とか、日本はもともと大陸とつながっていて自分の先祖はどうなんだとか、本当にそんなことを考えたんですね。いま考えてみれば、無知にしても程があるわけですが、本当にわからなかったのです。横で泉先生はニヤニヤしながら、「お前は二日酔い系日本人やろ」とか茶々入れてこられますし。困ってしまいました。このことはどういうことかと言えば、その人は、私がコリアンなのか、中国の人なのか、日本人なのかわからないから聞いたんじゃないんですね、もちろん。では、その人が私に何を問いたかったのか。私はそれまで日本人ということは意識したことがありました。けれど、日本人であるということの上に、○○系ってつけて考えたことがなかったんですね。自分は、アイヌ民族の人たちの言い方で言うと、和人という言い方になります。沖縄の人たちで言うと、「ヤマトンチュ」という言い方がありますね、「ウチナンチュ」という言い方に対して。だから「和人系日本人」なんですね。けれど、自分を和人系日本人と考えたことはなかった。なぜか。和人系日本人だって考えなくても、普通に生活することができてきたからです。そのようなことを日常生活の中で突きつけられることもありません。何より、自分に○○系がつくということ自体思ったこともなかった。そのことは、他の○○系日本人と言われる人との関係の中で、その照らし合わせの中で、自分自身を認識したことがないということを意味します。  では、私はそれまでアイヌ民族の人たちや在日コリアンの人たちの存在を知らなかったのかと言ったらそうではない。特にそのことを私に問うたキイチさんは、阿寒湖畔でお店をやっておられて、偶然にも、さきほど言いました高校の卒業旅行の時訪ねたお店でした。私はその時に、そのお店から民族衣装を借りて、ムックリという楽器を奏でる真似をしながら記念写真を撮っていました。そのときの私にとって、アイヌ民族の方たちの存在は、「北海道らしい風景」でしかなかったんですね。つまり、その人の存在を一人の人として、なぜその人がここで日本語を話しているのか、なぜここで観光客相手のお店をやっているのか、なぜその人が「豊岡喜一郎」という漢字の名前なのか、そんなことを何も知りませんでしたし、考えにもおよばないことでした。そしてもちろん、実家の寺が所属する真宗大谷派と北海道開拓の関係も何も知りませんでした。そういうことの中で、私は当たり前に日本人として生きている、そういうつもりだったわけですね。そのような私の意識は、初めて北海道を訪ねたときも、泉先生に連れられて訪ねたときも、基本的には変わっていなかったように思います。  そういう私にキイチさんが問いたかったこと、それは「あんたは何系日本人かって問われて、何が問われているのかわからない日本人だろう」ということだったのだと思います。したがって、「何系日本人か?」という問いかけに対する答えは、「和人系日本人です」というより「何系日本人かって問われて何が問われているのかわからない系日本人」ということになるのかなと思います。  そのことの持つ問題は、実は大変深刻な問題であると思います。そのときキイチさんは、アイヌ語のルーツや、民族楽器ムックリのルーツについて、熱っぽく語ってくださいました。それは、そのまま自身の存在のルーツの探訪でした。「何系日本人か」という問いかけの中に、「アイヌ系日本人」という本来ありうべからざる自身の在り方の中に、アイヌ民族としての自身の存在の必然性をどう頷いていけばよいのかという、深い苦悩と葛藤があったのだと思います。廣瀬先生が、ご著書の中で「宿業は一応過去の生活というてもいい。然し何もそれによって遠い昔の生活とか、前世の生というようなことを考える必要はない。むしろ私の現在を成立せしめている必然性に目を開くことでしょう」と記されています。キイチさんの探訪は、自らの存在の必然性、託生の根源を求めてのものであり、そういう中からの私への問いかけであったと思っております。その意味で、この問いかけは、いまでも私に常に、課題と向き合う力を与えてくれているように思います。それが、最初の阿寒でいただいた大変大きなものでした。  この問いかけについて、そのあと札幌で、別のアイヌ民族の方に話したとき、「自分たちアイヌにとって一番たちが悪いのは、北海道で直接差別をしてきた日本人よりも、北海道から遠く離れたところで、アイヌ民族の存在を何も知らずに生きているお前たちのような日本人なんだ。北海道の日本人は、アイヌの存在を知っているだけお前たちよりもずっとましなんだ」と言われました。「自分たちの歴史も何も知らずに、そして、そこで日本の名前を名のって生きているアイヌ民族がいるということも知らずに、平気で生きている存在、そういう存在が一番厄介な存在なんだ。自分たちに一番重くのしかかってくる存在は、あんたらのように都に近いところでぬくぬくと肥え太っている人間なんだ」と。そしてそういう存在を、シャモ、ここでは侵略者という意味合いですが、シャモよりたちの悪い、ずるいシャモ、「ズルシャモ」と言うと教えてくれました。  「ズルシャモ」という言葉で私を呼んだ人は、山本一昭という方でした。もうお亡くなりになりましたが、ずっとお付き合いをさせていただいた方です。一昭さんと呼ばせてもらっていましたが、この一昭さんが出会った当初に言われた言葉も、忘れることが出来ません。もともとアイヌ民族の人たちは「シサム」、良き隣人という言葉で私たち日本人を迎えたと聞いております。しかし、だんだん「シサム」という言葉で日本人を言うことができなくなってきた。そして、「シサム」という言葉が転訛して「シャモ」という言葉が生まれたと。一説でしょうけれどもよくお聞きします。一昭さんもそのようなことを言われておりました。「シャモ」は侵略者、そういう強い響きを持った言葉です。そういうシャモよりもっとたちの悪い「シャモ」が「ズルシャモ」です。しかしそのあと一昭さんは、「お前は逆立ちしてもウタリにはなれない」。「ウタリ」というのは、ここではアイヌ民族の血を引いている者という意味です。「けれどもシサムになることはできる」と言われたんですね。そして、その後の言葉がいまでも鮮明に甦ります。「だから俺はお前がシャモである限り、お前とつき合いぬく」と言われたんですね。普通なら「シサムになって出直して来い」です。そしてさらに、「俺はお前がシサムにならない限り、アイヌに戻らない」と。アイヌっていうのは人間という意味です。「アイヌ・ネノ・アンアイヌ」、人間らしくある人間。アイヌ民族の人たちが一番大切にしている言葉です。そのアイヌという言葉を私たちは、「あ、犬が来た」という蔑みの常套句にしてしまったのですけれども、そうして奪われた「アイヌ」をとりもどす闘いをしている人が、お前がシサムにならない限りアイヌに戻らないと言われる。これもとっても厳しい言葉です。しかし、これほど願いがかけられている言葉もないのではないかと思っております。そこには、必ず、私がシャモであることを転じて、シサムになれるという絶対信頼があると思います。また、私がシサムになることが、その人にとってアイヌをとり戻すことと同義なのだと感じます。「差別された者、した者が共に解放される」とはこういうことなのではないでしょうか。この願いは、すべての和人にかけられた願いであると思います。  その一昭さんが、私が「アイヌ」という表現を重ねてしたときに、「できる限り「アイヌ民族」と記せ」と言われたことがあり、「アイヌ」という言い方が本来なのではないですかと尋ねたところ、「その言葉がどれだけ大切な言葉かということがわかっていても、その言葉によって傷つけられた傷が先に痛むんだ。そのツケも払わないうちにお前たちはその歴史からさっさと逃げていくのか」ということを本当に厳しい表情で言われました。その名あるが故に傷つき、その名あるが故にアイヌを取り戻す闘いをされてきたのが、アイヌ民族解放運動だと思います。「ツケも払わないうちにお前たちはその歴史からさっさと逃げていくのか」という言葉、そして「お前が本当にシサムにならない限り、俺はアイヌに戻らない」と言う言葉、私はこれらの言葉は、文字通り私に向けられた「糾弾」の言葉だと思っています。  そしてもうひとつ忘れられない言葉があります。それは、この方ももう亡くなりましたが樺修一さんという方に、「お前と泉の一番の違いは何かわかるか」ということを聞かれました。これも違いがありすぎで一番の違いと言われてもなと思ったのですが、それは、「お前は泉がくぐった関門をくぐらなくてもよいということだ」と言われたのです。それは、樺さん自身との出会いがそうであるように、私は泉先生と北海道を訪問する中で、ほとんどのアイヌ民族の方と、泉先生が連れてきた者ということで、自己紹介一つでお話ししてもらえていたんです。しかし、樺さんが言われるには、泉さんがはじめて砂沢ビッキさんと会われたとき、樺さんも同席されていたそうですが、いきなり、「衣の下に鎧を着けているのではないか」と言われたそうです。その「鎧」というのは、ある意味で自分を守る鎧でもあり、また「侵略」にも通じる言葉で、もちろん北海道開拓・開教は全面的な武力侵略ではないけれども、アイヌ民族の方からすれば、僧侶というのが衣の下に鎧を着ているように見える。そういう中で泉先生自身が、何で自分はいま北海道を訪れ、あなたに何を聞きたいのかということを自分の言葉で伝え、対話し関係を築いてきた歴史があって、その中で結城庄司さんをはじめいろんなアイヌ民族の方々に出会っているんです。だから、そこで私とアイヌ民族の方が話していることは全然当たり前のことではなくて、泉先生が切り開いてくれたからこそいまがあるということに気づかせてくれたんですね。先ほど泉先生を、井戸を掘った人といいましたが、「井戸を掘る」という作業がどれだけ大変なことなのか。その水を当たり前のように、あたかもそこに最初からある水のように飲んでいるけれども、その掘った人の大変さを、水を飲むありがたさの中に受け止めていかなければいけないと感じたことです。  その泉先生が『身同』で連載された「アイヌ・モシリで考えたこと」の中に、「「歴史」は「資料」ではない。古人の、即ち僕らに血のつながった先輩たちの、鼓動や息吹を、その喜びと悲しみをその紙背に見出し、見出すことによって見出す者の鼓動とそれが一つになるとき、「歴史に出遇う」と、それを名づけるのである」(『身同』七号)という言葉があるのですね。この言葉は、『アイヌ民族差別に関する学習資料集 共なる世界を願って』の「発刊の願い」にも引用させていただきましたが、私たちにとって最も大事にしていきたい言葉の一つとして受け止めています。そしてもちろん、井戸を掘った人は泉先生だけではありません。特に、北海道教区において、アイヌ民族差別問題への取り組みは、とても大変なものであったと思います。  そのような中で、それこそ本山で取り組むのとはまったく違う苦労をしてこられた方があり、その人たちに応えようとされてきた教区の人たちがおられたのだと思います。特に、1986年の中曽根首相の「日本は単一民族国家」等の発言に対する取り組みは、残っている資料を見させていただいても、そのご苦労が伝わってきます。それらの人たちの取り組みは、私にとって、北海道に住まいしないものとしてこの問題に向き合っていくとはどういうことなのか、どこで主体が確立できるのか、という大きな問題につながるものです。実はこの問いも「ズルシャモ」という言葉や、「何系日本人か」という問いによっていただいていたはずなのですが、自分のこととして考えさせられるのは、もう少し後、大谷派教団としてアイヌ民族復権、北海道開拓・開教という問題にどう取り組んでいくのかということを、自らの「仕事」として考えさせられるようになってからのことのように思います。具体的には、「北海道開拓錦絵」に対するアイヌ民族からの厳しい問題提起を真宗大谷派として受けた、そしてそれを機縁として『共なる世界を願って』を、北海道教区の方々と当時の私たち解放運動推進本部のメンバーが合同作業で発刊していく、そういう経過の中であったことのように思います。そのあたりのことにつきましては、もう少しこのあと記憶をたどらせていただきたいと思います。  私とアイヌ民族差別問題との関わりの始まりについてのご質問にお答えしているうちに、話がどんどん膨らんできてしまいましたが、出会いの始まりは、私の中で、自分とアイヌ民族との関わり、大谷派教団との関わりの歴史など何も知らないところで訪ねた北海道で、まさしく、課題の方から私の方に歩み寄ってくださった。その結果、問われるもの、願われるものとしてある自分をいただく、それ以降30年以上経過して、まあ、ほとんど歩んだなどとはとても言えませんが、歩みの一歩、始まりをいただいたことは確かです。このようなところからも、私にかけられた問いかけにどう呼応していくのかということが、自分の一番のテーマといまもなっております。 (次号に続く)
―いま、「北海道開拓錦絵」に対するアイヌ民族の方々からの問題提起があったと言われました。それは北海道教区にとっても大きな出来事でしたが、訓覇さんはどう受け止めていますか。 訓覇:そうですね。私にとってもこのことはとっても大きなことで、先ほどもお話ししましたように、個人の問題ではなく大谷派教団として、アイヌ民族差別問題にどう向き合っていくのかがあらためて問われた出来事です。  まず簡単にこの「錦絵」についてご説明させていただきますと、ご承知のように、東本願寺は、1869年、明治政府からの協力要請に対して、「彼地土人ハ不及申諸方ヨリ出稼ノ者モ異教ニ流レ不申様仕、奉報御国恩度奉存候」という言葉で結ばれる「開拓出願書」を提出し受理され開拓開教に乗り出します。その第一歩として現如法嗣一行が北海道に渡りますが、その様子を描いたのが19枚綴りの「東本願寺北海道開拓錦絵」と呼ばれているものです。この錦絵は、「東京甘泉堂」という出版社から1871年に出版され当時流行を極めたと伝えられ、後年「東本願寺版」として版をあらため、近年まで何度も記念品などとして再版されてきました。その中に描かれたアイヌ民族は、多くが平伏したり、使役されている構図となっており、添えられた詞書には「むくつけき姿」「物の哀れを知らぬ蝦夷人」などという表現が多くみられます。  この錦絵が札幌市内にあるミュージアムが発行した展示会の図録に掲載されたことを契機として、「北海道旧土人保護法」廃止に向けた運動が展開される最中の1994年、アイヌ民族の解放、復権運動を担う人たちから真宗大谷派は厳しい問題提起を受けました。この時が、公の形でこの錦絵に対する提起を受けた最初なのではないかと思っております。その問題提起の場に、私も推進本部の担当者として同席いたしました。問いかけは、北海道教区というより教団そのものに向けられ、この錦絵の持つ差別性、延いては北海道開拓開教の歴史にどう大谷派として向き合うのか、そしてアイヌ民族差別問題に今後どう取り組んでいくのかということにまでおよぶ、大変きびしいものでした。この錦絵の詳細や、この時の提起の内容は、東本願寺出版から発行されている『アイヌ民族差別に関する学習資料集 共なる世界を願って』(以下『資料集』)に記載されておりますのでご一読いただければと思いますが、その時に発せられた、「現在もこの錦絵が流布しているということは、アイヌ民族への蔑みや劣等視ということに止まらず、アイヌ民族を保護や救済の檻のなかに、今でも閉じこめようとしているということではないか」という提起は、当時はまだ、北海道旧土人保護法が存在していた時代でしたので、この問題の本質に迫る重い提起であると受け止めさせていただきました。  北海道旧土人保護法は「(アイヌ民族に対する保護と救済は)文明国人が天から与えられたる所の人道上の義務」として同化政策のひとつの集大成として1899年に制定されたものですが、北海道庁は、「旧土人の保護、文化の向上、言語・風俗・習慣等の同化に努めたる結果…全く固有の言語を知らざる迄に大和民族化しつつある状態なり。近き将来…その存在は唯単に史上の記録に止まるに過ぎなくなるであらう。茲に至って始めて物質的にも精神的にも同族を救ひ得る所以であつて、保護法の使命も完うし得るに至るであろう」(北海道庁1936年)と自己評価し、同化政策がアイヌ民族の救済であることが堂々と述べられています。この法律は戦後50年以上経過した1997年にようやく廃止されますが、新しい民主憲法ができても、なぜ「保護法」は廃止されなかったのか。それは、アイヌ民族を「救済の客体」とみなす見方から抜け出せなかったからではないでしょうか。そう考えたとき、仮に結果的であるにせよ、その意識を当時の人々に植え付けたとも考えられるこの錦絵の流布は、そこに集うたアイヌ民族の方々にとっては、共生への願いに背くものと言わざるを得なかったのだと思います。  さらに、この錦絵のなかに、現如法嗣がアイヌ民族に酒とともに名号を与える様子を描いた「本府御酒被下之図」というものがありますが、その図には、「…物の哀もしらぬ蝦夷人を済度したまわんとて竜飛白神の暴き瀾を凌き雷電黒松内の剣き路を冒し玉ひしは祖師聖人の北陸東海の御化導も思合せられまいらせて…」という詞書が付されています。親鸞聖人の「北陸東海の御化導」と、ここで描かれている事柄が重ね合わされていることがわかります。はたして親鸞聖人の「北陸東海の御化導」とは、このようなものであったのでしょうか。またそこで説かれた「救済」は、「物の哀もしらぬ蝦夷人を済度する」という性格のものであったのでしょうか。さきほど救済の客体という言葉を使いましたが、この錦絵からは、私たち自身の「救済観」が問われてくる、そういう思いを持っております。 ―その時の「錦絵」に対する問題提起がきっかけで、『資料集』が編集されることになったのですね。 訓覇:それが問題提起に対する大谷派の応答でした。さきほど、大谷派教団が部落解放運動からの「糾弾」に問われているという話をしましたが、私は、この時のアイヌ民族の方たちからの問いかけを、大谷派に向けられた糾弾と受け止めています。ならばそれにどう応えていくのか。その一つの応答の形がこの『資料集』の編集と発行です。したがって、錦絵の問題だけでなく、その時に提起を受けたことにできるだけ応答していく内容となるよう編集しました。そして内容だけでなく、当初から課題となっていた教区と本山の連携ということも強く意識して、合同で一つのチームを作って作業を行いました。かなり発行まで時間を要してご迷惑もおかけしましたが、推進本部側も教区側もお互い納得いくまで、それぞれの立場から記述内容を確認していく、そういうことに力を入れました。そういうなかで共有された編集方針が、「①アイヌ民族の方々が言われる「和人は北海道から出て行けというのではない。本当に共生を求める存在となってほしいのだ」という願いに応えていくと言うことをベースにする。②侵略か非侵略かという判別をするのではなく、「民衆史」という視点で資料集を編んでいく。民衆史という視点は、人と人との出会いの歴史という視点であり、出会いが妨げられてきた歴史という視点である。③真宗門徒としてアイヌ民族差別問題に学ぶとはどういうことかということを常に意識しながら編集する」という三点でした。この中で北海道教区の方と特に話し合いを重ねたのが②の部分でした。少し私なりに補足すると、北海道開教が偉業であるとか、侵略であるとかというのは歴史への「評価」であり、評価となると当然それぞれの人の立場、視点によってその評価は変わるわけです。そうなると次にどのようなことが出てくるかと言えば、一つの評価からだけでなく、様々な立場からこの問題を考えていかなければならないということが必ず出てきます。その繰り返しになってしまうと思うのです。もちろんそのようなことが大事になってくることもあると思うのですが、この『資料集』はあくまで、同化政策や錦絵の流布によって人間が傷ついた、差別によって人間のつながりが究極的に損なわれたという、人間の上に現実に起こった事実、それは訴えられる人の声、それと闘う人の姿と出会うことによってはじめて知りうる事実なのですが、その事実と向き合うところから編んでいくものであるということです。開拓開教が偉業であったか、侵略であったかをどう評価するにせよです。そしてその問いかけは、人と人とが真につながって生きていける世界、すなわち共生の世界実現への希求から発せられるものです。差別もあったけど、つながった部分もあったということではないと思います。それをこの時は「民衆史という視点」と表現したと私は受け止めております。いま思えば、ちょっとこの民衆史という表現はわかりにくいかもしれませんね。  この時の推進本部から編集チームに加わっていたものは、みんな退職してしまいましたが、これから教団の取り組みとしてこの問題に関わる人も、「糾弾」に応える営みとしてこの『資料集』が形をとったということは、引き継いでいただけたらなと願っています。 ―それがきっかけで北海道教区においては、本山指定解放特伝という形で、この『資料集』を用いた各組での学習会がはじまった。 訓覇:そうですね、これも教区と本山の共同作業ということだと思います。ただ、この取り組みは解放特伝という形式をとったということにおいて共同作業ですが、実際は教区のスタッフが主体となり、アイヌ民族の方にもチームに入ってもらい実践されたもので、新しい形での教化の現場でのアイヌ民族差別問題への取り組み、開拓開教の歴史への向き合いを始められたのだと思います。教区としては、『資料集』作成だけで止まらなかったわけです。私は、それが教区として糾弾に応えられた形であったと思います。そしてその後、教化冊子の作成などさまざまな形で取り組みが展開され、今回「共なる世界を願って―北海道開教の歴史をかみしめ、一人ひとりの立教開宗へ」という慶讃法要テーマが生み出された。中曽根首相の単一民族国家発言の時に大変苦労して「北海道教区同和協議会」の名前で宗務総長宛てに「要請書」が出されましたが、その本山に要請された事柄を、教区自らが担っていくという、大きな歩みだなと思わせてもらっています。『資料集』作成だけで止まらなかったと申しましたが、では本山は、そして私自身はそこで止まってしまっているのではないか。葛藤の歴史も含め、教区の歩みは、そのような私たちの現実を浮き上がらせてくれるように思います。その歩みを、本山が、そして北海道に住まいしないものがアイヌ民族差別問題、北海道開拓開教の歴史を自らの課題として受け止めていくために学んでいかなければならないのではないかと感じております。そのためにも、教区内だけでなく、ひろく教団全体に向けて、現在の学びや取り組みを発信していっていただきたいと思っております。 ―いま、中曽根発言の際の教区の取り組みについて話がありました。少し時間を戻すことになりますが、当時アイヌ民族差別問題や北海道開拓開教という課題に取り組むことの困難さは、どこに原因があったと思いますか。 訓覇:ちょっと突飛なことを言うと思われるかもしれませんが、当時の「同和推進本部」でも、北海道教区でも、アイヌ民族差別問題を、教区や本山の教化の課題として取り組む位置づけがなかった、ということが結構高いハードルになったのではないかと思うのですね。少数ではあっても、教区でも本山でもこの問題に向き合おうとしている人はおられました。もちろん泉先生はそのお一人ですが、それらの人たちが、個人ではなく教区として、本山として取り組みをはじめようとしたときに、その受け皿というか立場とするところがないんですね。当時の同和推進本部を例に具体的に言うと、「職制」に位置づけられていないという問題です。これは案外大きな問題なのです。  少し、同和推進本部の沿革についてお話しさせていただきますが、当時の同和推進本部というのは、職制上「同和問題」に取り組む機関だったんです。推進本部は「同和部」という部門が前身ですが、同和部というのは、難波別院輪番差別事件が起こった1969年にはまだ設置されておらず、糾弾会を担当したのは「教育部」でした。教育部が所管する一課題が「同和問題」でした。「同和問題」については、戦前は1921年に武内了温によって設置された「社会課」が担っておりました。社会課の業務は「同和問題」だけに止まらず、農村問題とか貧困問題とか、他のいろんな社会問題を扱っているんですよ。当時大谷派が開催していた「社会事業講習所」というのは部落問題だけではなくて、幅広く、きちんと社会の問題にコミットしていて、派内よりも派外の人たちの強い関心を得ていたと言われています。そのような歴史が大谷派の社会問題への取り組みの歴史としてあるのですが、戦後しばらくして、宗務機構の改編の中で社会課の業務の中の「同和問題」などが教育部に引き継がれていきます。その教育部の業務の中からまた「同和問題」だけを独立させる形で1971年に設置されたのが同和部です。この同和部がもとになり、1977年、同和推進本部が誕生しますが、このとき同和部の取り組みだけが同和推進本部の取り組みの対象になってしまいました。  宗門の組織の中で職制というのは大きくて、そうなりますと、アイヌ民族差別問題に取り組むということは、職制にないことをやっているということになるんですよ。ですから「職制にないことをなんでやるのか」とか、「なぜ部落差別問題もきちんとできていないのにアイヌ問題まで手を広げるのか」というような声も出てくるんです。でもそれはそういう声が出てくることもわかるわけで、初めに言ったように私も心情的には最初そう思っていたんです。中曽根発言当時は、そのような状況の中にあり、そういうなかで取り組みがはじまったのだと思っております。これは現在にはない苦労だと思います。  そしてようやく、2004年の「解放運動推進本部職制」の施行によって、推進本部の取り組むべき課題が「部落差別をはじめとする様々な差別問題」と記され、「教化基本条例」も同様にあらためられ、ようやく部落差別問題以外の差別問題の取り組みが職制上位置づけられたのです。この職制改正まで、中曽根発言当時から18年の年月を要しておりました。 ―同和推進本部と北海道教区の交流や問題の共有以前に、越えていかなければならない課題として同和推進本部自体の職制の問題があったんですね。 訓覇:そうですね、ちょっとくどくどと話させてもらいましたが、やはり教化基本条例はもちろん解放運動推進本部職制も議会で可決されるものですから、宗門の意思であり、宗門世論の反映であると思います。その点からも私はこの現在の解放運動推進本部職制の変遷というのは、大切に見ていかなければならないと思っております。  そういうところからもう一つ踏み込んで言わせてもらうなら、現在の解放運動推進本部職制の第1条「設置及び目的」に、「部落差別をはじめとする様々な差別問題」とまでは書かれていますが、そこに「非戦平和」という言葉は記されていません。第2条の「業務」のところでようやく「非戦平和」という言葉が出てきます。職制改正の当時、私も現場からの意見として、設置目的に靖国問題、非戦平和を掲げるべきだと主張しましたが、取り入れてもらえませんでした。私はここに、もしかすると、他の差別問題が位置づけられるということ以上の、大谷派における差別問題の取り組みの本質にかかわる大きな課題があるように感じています。課題にあげられた非戦平和の中に靖国問題が含まれることは、内局は後に議会答弁しておりますけれども、設置目的に掲げられず、教化基本条例にも反映されなかったことは大きな課題だと思っています。 ―それはどのようなことでしょうか。 訓覇:結論的に言いますと、私は大谷派における解放運動推進ということを考えるとき、「真宗と国家」という視点は、全ての問題において不可欠であると思っております。  私がここにこだわるのは、最初に「同朋社会の顕現」差別発言事件のことを話しましたけれども、あの発言は「同和とか靖国とかやっとるひまがない」という言葉が問題の根幹だったのですが、このときに当時の推進本部が、「同和」という言葉にはものすごく反応したけれども、「靖国」という言葉に、どれだけ同じ痛みや悲しみを持ってこの発言をとらえられたのかということを思うのです。発言者の中では「同和」「靖国」ということで並列なんです。しかし、推進本部の側からの取り組みでははっきりと濃淡がついている。さきほど紹介した訓覇の回答書でも、「靖国やっとるひまはない」については触れられていません。この問題は大きな問題です。それは、「同和」の方は受け止められたけれども、「靖国」の方はまだだという問題ではないのです。もちろん、二つの違う言葉ですから、そのような面がないとはいいませんが、それ以上に、部落差別問題が真宗と国家という課題と切り離されて課題化されるということが問題だと思うのです。もちろん二つに分けることも大事です。あえて二つに分けることによってはじめて、その根元が同じ問題だということが課題化できるわけですから。しかし、大谷派の場合にはそれが分けたままの状態にずっとなってきたように思います。ただ「同和靖国」と二つまとめてカテゴライズされているだけなのです。つまり真宗と国家という視点を抜きにしても取り組める部落差別問題への取り組みであるということです。そこにあるものは、差別問題を心の問題に収斂させてしまうという大きな危険性です。  そして、もう一つは、自己と社会、自己と国が切り離されるという問題です。私は、この問題は非常に根が深い問題で、結局、差別問題だけが自己を問うことの中身に含まれ、信心の問題だと受け止められるということが起こってくるのではないかと思います。アイヌ民族差別問題にしてもハンセン病問題にしても、真宗と国家という問題の視点なくして本質には迫れません。しかし、部落差別問題というのはある意味で非常に曖昧に「自分の差別心の問題だ」というところに落とし込みやすいのです。しかしそのような形で、個人の心や意識の問題に取り込んだ部落差別問題は、本来の部落差別問題ではないと思います。このことは、私自身が完全に陥っていたところで、前期の教師修練で部落差別問題を学び、「問われる自己は差別している自己である。だから自己を問い続けなければならない」というところに完結して、推進本部にお世話になったように思います。そういうことからいうと、アイヌ民族差別問題や、ハンセン病問題は、私にとって、これまでの部落差別問題への取り組みから見えてきた問題ではなく、これまでの部落差別問題への取り組みからは見えなかった問題という方が正確なのではないかと思います。そういうところに光をあてるような職制にしていかなければならないということが、現在も課題としてあると思っております。  阿弥陀の国、浄土が何を相対化させるのかというと、やはり国の性格だと思うんです。国というもののはたらきというのは、そこに生きる国民の性質を決めていくものです。一つ具体例を紹介するなら、2019年6月に「ハンセン病家族訴訟」に対する判決が出て、ハンセン病隔離政策は、ハンセン病を患ったものだけでなく、その家族にも多大な被害を与えたことが認められました。その判決の中に「国が実施した隔離政策により、ハンセン病家族が大多数の国民らによる偏見差別を受ける一種の社会構造を形成し、差別被害を発生させた」という指摘がありますが、私は大変大きな提起であると受け止めています。裏返して言えば、隔離政策が存在している国、社会の住民は、ハンセン病を患った人や家族に対して偏見差別を自ずと持つということです。それが社会構造ということです。その時、「ハンセン病に係る差別はやめましょう」といくら啓発活動をしても大きな効果は得られないのです。個人の心の問題ではないのですから。「差別者の自覚」ということはとても大切なことですが、それが逆に、自らの在り方を生み出す社会構造、国の性格というものから目をそらすことになっていく、そういう危険性があるのではないかと感じています。自己を問うことが教団を問うことであり国を問うこと、国を問うことが教団を問うことであり自己を問うこと、そういうところから頷かれる「差別者の自覚」ということが大事なのではないかと考えています。その時、「共なる世界を願う」ということも「差別者の自覚」の内実となってくるのではないでしょうか。 ―最後にテーマについて感じるところを聞かせてください 訓覇:このテーマは、ここにある言葉のすべてがそのまま私への問いかけであると思います。まず「開教」ということについてですが、私はいまこそ開教という言葉の再生が求められていると思います。教えが開かれるという言葉には、何のマイナスの意味もありません。そのことを考えるとき、アシㇼチェㇷ゚ノミに参加し始めたころ出てきた一つの問題を思い出します。さきほども触れましたがアシㇼチェㇷ゚ノミというのは、明治以前の北海道で集落ごとに毎年行われていたアイヌ民族の伝統的宗教儀式です。その宗教儀式に真宗大谷派が協賛金を出すとはどういうことか、という問題なんですね。宗務所内からも厳しい疑問の声が出されました。当然と言えば当然ですけど。そのような声に対して、当時私たちはどう答えたか。アシㇼチェㇷ゚ノミは「文化」だ、と答えてしまったんですね。アイヌ文化に協賛しているのであって、宗教儀式に協賛をしているのではないという、ある意味で言い換えというか、いま思えば逃げの答えであるように思います。もちろん、その本旨が「民族としてのあらゆる誇りを回復するのが解放の道であって、アイヌの自覚を捨て去ることではない」「自然が失われているコンクリートジャングルの札幌で、アイヌ民族の伝統行事を行い、滅びることを拒否し続けているアイヌが多数参加すること自体が、声高に叫ばなくとも、鋭い刃物となるのだ」(第11回アシㇼチェㇷ゚ノミパンフレットより)という言葉からもわかるように、一伝統行事の披露や保存ということに止まらず、アイヌ民族の復権、解放をかけて行われているものであり、そのことに対する協賛であることは間違いないのですが、それが宗教行事であるということに対する問題です。これは現在でもスカッとしてない部分かもしれませんけど、あえて言うなら、アシㇼチェㇷ゚ノミがアイヌ民族にとって宗教儀式であるからこそ担う、解放に向けての役割というものがあるのではないかということです。これもアイヌ民族の方からお聞きした言葉ですけれども、「同化政策は、アイヌ民族の文化、宗教などあらゆるものを根絶やしにしようとしたけれども、カムイノミの言葉を日本語にすることはできなかった」と。その言葉が、いまアシㇼチェㇷ゚ノミの際に祭主のエカシの口から出でいる祈りの言葉なんですね。アイヌ民族としての人間観、世界観に直結しているものが宗教というものであり、アシㇼチェㇷ゚ノミという宗教行事を復活させるというところに尊厳回復が見出されるのではないか。そういう営みに真宗大谷派として、真宗門徒として共感できるということが、協賛するということではないかといまは思っています。この共感ということが開教ということをどう受け止めていくのかということに、つながっていくように思っております。  この共感のベースにあるものは、とことん相手を「正当な他者」さらには「異者」として発見していくということです。というより、その発見こそが開教ということの具体的はたらきとなってくるのかもしれません。この正当な他者という言葉は、フェミニストの江原由美子さんの言葉なのですが、こういう文脈で使われています。大事な示唆であると感じていますのでご紹介させていただきます。「「差別」とは本質的に「排除」行為である。差別意識とは単なる「偏見」なのではなく、「排除」行為に結びついた「偏見」なのである。「排除」とはそもそも当該社会の「正当な」成員として認識しないということを意味する。それゆえ「差別」は差別者の側に罪悪感をいだかせない。なぜならわれわれが他者に対する「不当な」行為に対して罪悪感をいだくのは、他者を正当な他者として認識した時であるからである」(江原由美子『女性解放という思想』)  もう一度、開教という言葉にもどりますが、私が北海道における開教ということを具体的にイメージさせていただいたのが、アイヌ民族のご門徒小石川武美さんの、「自分は親鸞聖人の教えに出会って、アイヌ民族の宗教を大切にしていくことができるようになった。誇りをもってアイヌプリを行う(要旨)」という言葉です。親鸞聖人の教えが、その人をして自らの独尊性に目覚めさせる。それがアイヌ民族の小石川さんにとっては具体的にはアイヌプリを行うということであったのだと思います。小石川さんは本山の報恩講で門徒感話をされたとき、アイヌ民族衣装の上に肩衣をつけられました。また結城幸司さんも、民族衣装をつけて御影堂に座られ、親鸞聖人の姿を版画に表されています。私はその姿にも、開教ということの実際を感じます。それらはすべて、「同化」ということの対極にある姿です。そういうつながりを生きる世界を与えてくれるのが、本願のはたらき、教えと言えるのではないでしょうか。  次に「共なる世界を願って」ということですが、私は一体どのような世界に生きたいと願っているのか、という本願からの問いかけ。共なる世界に生きたいと本当に願っているのか、ということですね。共なる世界は、同朋社会と言ってよいと思いますが、同朋社会とは、お互いを独尊者、独りにして尊い者として称えあう、互いの独尊性を証明し合う、そのようなつながりによって成り立つ社会だと思います。それは、同化を求めることによって成り立つ社会の正反対の社会です。差別の反対語は尊敬だと言われますが、単なる尊敬ではなく、独尊者としての尊敬です。日本における同化政策の場合、同化を求めるとは、相手を救済の客体とみなす、ということだと思います。その救済の客体としての見方から、互いを「解放の主体」として発見する、その転換ですね。そういう世界に生きたいと願え、それが本願からの呼びかけであるなら、それに私自身がどう応えるのか。このテーマの言葉はそういうことを私に問うてきているように思います。  そして「一人ひとりの立教開宗へ」。これは、私への立教開宗ということだと思いますが、このテーマの基盤だと思います。私に教えが開かれるということがあってはじめて北海道開教という人間の歴史を、人類共通の課題として発見させてくれる。それこそ、アイヌ民族も和人も、北海道に住むもの、住まないものも。そしてその発見をとおして、共なる世界を願う歩みを私に与えてくれるのではないかと思います。  北海道教区の現在の取り組みのご縁で、私も石原真衣さんや土橋芳美さんなど新しい出会いをいただきました。「往生とはかわり続けること」という言葉をいただいておりますが、今回のインタビューが私に新た歩みを与えてくれるものと感じています。ありがとうございました。
「謝罪」からはじまる「出会いなおし」 中西:慶讃テーマインタビュー最終回となる今回は、お待ち受け大会の講演をお引き受けいただいた結城幸司さんにお越しいただきました。今回の慶讃法要では「共なる世界を願って―北海道開教の歴史をかみしめ、一人一人の立教開宗へ」とテーマを掲げて様々な取り組みを始めていますが、このテーマをどのように共有し深め、そして実際に身近なこととして考えていけるのか、具体的に何をしていけばいいのかというような方向性が見えにくい現状もございます。そこで、今回は広報部会の方々にもインタビューに参加していただいて、それぞれテーマに関して思うことを述べていただきつつ、座談会のような形でお話ができればと思います。まず私から質問させていただきますが、結城さんはテーマをお聞きになって、率直にどのような印象をお持ちになられましたか。 結城:僕は、学習資料集『共なる世界を願って』から、大谷派との関わりというものが始まったんですけど、その前には先輩である石井ポンペさんや、うちの親父(結城庄司氏)たちの時代からお付き合いがあって、最初は結城庄司の息子ということで、大谷派のいろんな人たちから声をかけられたり、「アシリチェプノミ」での交流もありました。でもその大谷派の人たちが宗祖と仰いでいる親鸞聖人を名前だけしか知らなかったんですよね。どういうことをされた人かというのは本当に知らなくて、「共なる世界を願って」という資料集が作られて、特別伝道で全道を回っていく中で、「なぜこの人たちは人権のこと、もしくは人間のことを北海道のことを、わざわざ反省をしていくんだろう。なんでこうやって自分で背負っていくんだろう」という思いが出てきたんです。  そこから、「この人たちが普段見つめている世界って何なのかな」と思って、親鸞に興味を持ち、ちょうどあの頃五木寛之さんが新聞で連載していた小説『親鸞』を買ってみたりしました。それまで僕が思い描いていた僧侶っていうのは、なんとなく離れた存在でいながら、そこから言葉を送る。ブッダであれ、イエスであれ、宗教に対して持っていた印象は、向こう側にいながらこちらのことを語っているのかなと思っていたんですが、親鸞聖人という存在を知って、私たちと同じところに居て仏の世界を見てるというのかな。僕もアイヌでいながら自分が語れない時代もあったし、迷ってもいたんですけど、そんな僕にも言葉の新鮮さというか、心に触る言葉にたくさん出あったということがありました。そのような中で「この僧侶たちが立ち返ろうとしているのは、そういう人間としての自分の心持ちなんだ」というのはそこで気づかされた気がします。  だから質問にもあった通り、「方向性が見えない・答えが出せない」というのが本当はすごい大事なことなのかなと思うんです。特伝から北海道大会(「共なる世界を願って」をテーマに開催された推進員全国交流集会 2012年)が開催された5年間は、自分にとってもすごく濃い期間でした。そこには僧侶だけじゃなくてご門徒さんたちもいました。年配のご門徒さんたちが見てきた、ご自分の苦労された時代から高度成長期に入り、そして今のような経済中心の社会になっていく中で、この北海道で生きてきたというお立場から、アイヌと出会うということをちゃんと見ていなかった。アイヌたちも内向的で自分を見せていなかったっていう時代がすごく続いたと思うんですよね。その二つがあるおかげで、ご門徒さんたちに会った時に、「なんで今更アイヌなの?」っていう言い方をした人たちや、「本当のアイヌなんていうのはいるの?」なんていう人たちももちろん現れたりして。普段だったら逃げていたかもしれないですよね。別に無理解な人たちと付き合わなくてもいいよって感覚もあったのかもしれないんだけど、やっぱり親鸞聖人に興味があって。何かパンと殴られたけれど、しっかり見てみようっていう考え方になったのかな。  その時のお付き合いが、今でも僕の中の芯になっているかもしれないですね。ですからこういうところで発言をしたり講演を行ったりするときには、何か特別なカラーを持っているからそれを見たがる人もいるし、もちろん人は苦労話も好きだし、差別を受けた話も多分聞きたいと思うし、そういう自分の機微に触ることって、話し手のテクニックとしてあるんです。しかしそうではない「等身大の今」を常に語らせてくれたのは、等身大の僧侶たちが僕の中では生きている同志のように感じているところがあるんだと思います。それがなんとなく僕の「共なる世界」のスタートだったんですね。  だから桂井さんや名畑さん、他にもいろんな人たちがすごく真面目にやってらっしゃって、差別のことも逆に僕が勉強になったことや、お亡くなりになった松岡さんがアイヌ語の地名でも、僕の知らないところまで調べてくれたこともありました。その真剣さとアイヌたちがアイヌから逃れようと、どこか自分を解放できずにいるその誤差みたいなのもあって、僕はその中間にいるような気がしています。桂井さんや名畑さんは僕とほぼ同い年なので、同世代のお話をしながら、特に帯広という実は差別がいまだ厳しいようなところで、ああやって向き合うことや、お寺が抱えているご門徒さんとの関係もあるだろうから、僕らにばかりいい顔もできないと思いますし。そういう中で揺れ動く感情がお二人にもあったんじゃないかなと感じながらね。でも僕も揺れ動くので、その揺れが止まらないこともこの時代の正体だと思うし。何かそんな感覚をずっと持っていますね。 広報 河野:僕は周りにどれだけアイヌの人がいるのかっていうことを僕は知らないで北海道に住んでいて、学習資料集を読んで講義を聞いても全然わかんなくて。これはどうしようかっていうときに、ちょうど上ノ国でコシャマインの慰霊祭があって、そこに突入してお酒を飲みながら好き勝手に喋らせてもらったんです。「お前アイヌの人たちに対して何言ってんだ」ってまわりに言われながらも、「カムイ」と「アイヌ」の抑え方っていうのが僕にとってはすごく共感できたんです。 カムイじゃなくて、真宗では弥陀ということになるんだろうけども、はたらきをどう感じるかっていったときに、そのアイヌの人たちが誇りを持とうとしている生き方に触れた時、自分にとって「誇りをもって生きる」ということがわからなくなってきているんじゃないだろうかって思ったことがありました。 結城:それが、まさしく「共なる世界」じゃないですかね。世界は多分僧侶の方も、一般の方も、みんなそれぞれ違う世界で生きている中で世界が重なったり、疑問に思ったりすることが普通だと思うんですよね。決して統一されることのない、同じことにならないけれども、それに向けての話し合いをずっと繰り返すことが、まさに「共なる世界」かなと。  ただ、そのチャンスというのかな。特伝や北海道大会がなかったら、ご門徒さんと会うこともなかったし、普段違う世界で生きていて「ああ、昔のアイヌは酔っぱらって、仕事もしないで酒飲みながらその辺でころがっていたな」なんていう会話が開拓者の方にはあるけど、アイヌの僕ら世代にはずっと聞こえないでいた。そういう中で僕が考えたことは、開拓期から安定期に入り、そしてやっと作物が順調に実り、少しずつ豊かになっていった。しかし、そのストーリーの中にアイヌは介入しないんですね。すごく経済が上昇していく時代の中で、アイヌが学者や政治にも忘れられそうになっていて、それこそ差別が一番苦しい時期で、そのとき苦しんでいる人はお酒に逃げるだろうし、もしかしたら喧嘩売ることもあっただろうし、そういう矛盾を抱えていたんだと思います。アイヌたちの経済が一緒にのぼって行ったならば、「共に苦労したね」って話もあるかもしれないけれども。  僕はそれを振り返ることができたっていうのかな、ここにいるおかげで。だから、元気のいいご門徒さんに、「純粋なアイヌなんかいるの?」なんてよく言われたけど、今のネットの世界のように、科学的な根拠や、アイヌは文字を持たないんで、歴史学的に不利な状況の中で、自分たちの文化について僕らも自信を持てないんですよ。そういう所を突いてくるような世の中の状況で、ご門徒さんたちはダイレクトに自分の感覚として僕に話してくれて。  なにか僕にとっても、この「共なる世界を願って」ということが、いまだに学びになっていると思います。だからいま河野君が言ったように、河野君は河野君で揺れただろうし、それは自分の宗教を確かめながら「カムイってなんだろう」って考えるのは当たり前のことだと思う。だから、逆に言うならば、河野君はもしかしたら北海道の人たちの感覚の代表かもしれない。「アイヌの考えるカムイってなんだろう」って。  今僕らはカムイという世界を抜きに、文化で表現することが始まっていて、それについて僕はちょっと批判的なところにいるんです。自分たちの先祖が信じた世界を僕も信じてみたいなと思うし、かといって過去のような生き方もできないし。狩猟民族と言いながら狩猟免許取って狩りをしながら生きるなんてことも僕にはもうできない。それならば僕は表現者なので、そういうカムイの世界観や神話を版画の中に込めたり、木彫作品の中に込めたりしていますが、その世界観は壁のない世界観じゃなければいけない。親鸞の世界であれ、仏教の世界であれ、開かれた場所があるから、他の人たちがそれに感じ入ってまた次につながっていくんですよね。僕らアイヌも「アイヌ文化すごいですよ」「僕らはアイヌの血を引いていますよ」というだけではやっぱり理解者は持てないなという考え方もあるので。僕は今そこが自分の中の葛藤ではあるんですけど。  もしアイヌの中に親鸞さんのように言葉を降ろせる人が―僕らと同じところに居ながら外の大いなる世界を表現する人がいたとしたらいいなって思うんです。「悪人正機」とか、僕は最初全然わからなかったです。なぜ悪人ほど救われるのかなんて、普通のネットにのっているような疑問ですが。僕も不良少年をやっていたからわかるんですが、悪いことの自覚って生まれるんですよ。でも不良少年であろうとどんなに悪い心を持っていようと、「俺このままでいいのかな」とか、いろんな葛藤が生まれて、そこの中で目覚めればいいけど、どうしても違う日常を歩んでいたらまたそこに流されていってしまう。そうやって苦しんでいる人たちがいっぱいいますけど、それを救う言葉があの言葉だったのかなと思っています。  だから言葉で救う、仏陀が説いた言葉で救われた時代もあったかもしれないけど、よりその救いというものに近寄らせてくれる言葉を親鸞聖人が出してくれたこと、それってすごいなと思うんです。そのまま比叡山にいれば出世もできただろう人がわざわざ山を下りて。生涯いろんな意味で悩まれただろうし、いろんなことにぶつかっただろうけど。僕にとって、皆さんの祖となる人の姿というのはそんなふうに映っています。  だから、お世辞抜きで「共なる世界を願って」というテーマを生みだしてくださって本当に良かったと思います。その中でいろんな出会いがあって。あの本をつくった誰かが「出会いなおし」ということを言い始めたんです。出会うのは簡単なんですよね。喧嘩するのも簡単、別れるのも簡単だけど、やっぱり北海道民とアイヌが出会い直せるんじゃないかというような希望が生みだされたのがすごいと思うんですよね。それは、親鸞聖人がいたからかもしれないし、あの時真剣にやっていた皆さん、桂井さんにしても名畑さんにしても、松岡さんにしても、右翼だ左翼だと変なこだわりを持つよりも、人間らしさを回復しようとする人たちによって動いたことが本当はいっぱいあるのではないかなと思います。  でも僕がひとつだけ反社会と思われるような言葉かもしれないけれども、こだわって言い続けているのは、「謝罪」ということです。いろんな法律なりウポポイができあがったりというのはいいんですけど、それだけではなくちゃんとした謝罪。海外では理解されなかった世代のことを、「ストールン・ジェネレーション(盗まれた世代)」っていう言い方をするんです。そのような歴史を社会の常識にしてくれと。それが謝罪にあたるんだということは常に言ってますかね。常に無視されますけど。 中西:「謝罪」というのは、誰が、何に対して、何を謝罪するのかという、その一つ一つを明確にしていくことがあると思うのですが、それについてはどのようなものとして考えておられますか。 結城:謝罪って、「お前謝れよ」と言って謝らせて、「じゃあ何か代わりに出せよ」というのが僕の言う謝罪ではないんですよね。僕のいう謝罪は、たとえば「北海道命名百五十年」が2019年にありましたよね。その中で、じゃあ百五十年の最後の十年がよかったとしても、百四十年の間僕らは自分たちらしく生きられる想像力を奪われたわけです。アイヌ文化って、本読んだり、父からいろんな人から聞いたりということもあるけれど、それを自分が人間としてアイヌとして本当にカムイという世界と日常を見つめながら生きているかと言えば、それほど自信のある人は少ないと思う。そこに想像力が失われたことの原因はいったい何なのかということを考えたときに、それは「奪われた」ということがあります。  たとえば「旧土人学校」という学校がありましたが、そのことを歴史教科書に書かれることはほとんどありません。でも子どもたちから言語を奪おうとした隔離政策でもあったと思うんです。他にもアイヌだから雇わないとか結婚差別とかがあったのは事実です。そのことで苦しんできた人たちの事を抜きにして、「今きれいな花火を打ち上げたからいいじゃないか」というようなことになるならば、それはおかしいんじゃないかと。  だから、「アイヌに対する政策がうまくいかなかった時代が、特にこの北海道の歴史の中にあったんだよ」ということは、もっと社会にアピールして欲しいと思います。「だからこそ、今このような政策に取り組んでいます」ということが浸透してくると、これからのことを共有できると思うんですが、それはいまだ実現してないんですよね。一生懸命開拓から頑張ってきた人たちのことも認めなければいけませんが、でもその時代の半面でこういうこともあったということを伝えつつ、「アイヌの土地に対する考え方や、川に対する考え方、山に対する考え方は、実はこうだったんだよ」ということが分かってくれば、僕らとカムイの世界を遠ざけたものは何なのかということがちゃんと見えてくる。それが僕の言う「謝罪」なんです。 中西:「謝罪」ということでもう少しお聞きしたいのですが、個々のレベルでの謝罪ではなく、組織間でなされる謝罪というのは、すごく難しいという感覚があります。組織である限り代表がいて、そして合議制のようなものがあって、謝罪の内容を協議し決議していくという一つの意志の持ち方というものがあると、謝罪が実現されるまで時間がかかるということがあります。逆に協議の時間を十分持てなければ、謝罪の内容を共有する事が徹底できない。結城さんが先ほど言われたような、終着点ではなく謝罪から始まる関係性というものについて、具体的にどのようなイメージをお持ちですか。 結城:そうですね。「謝罪から生まれることがあるんだったら教えてほしい」みたいなことを言われたこともあるけど、僕にとっては「時代の正体を明かして一回けりをつける」ということなんです。それができるかできないかといったら、できるんですよ。オーストラリアでは、1970年くらいまで、多くのアボリジニの子どもたちが強制的に親から隔離され収容所や孤児院に連れていかれた「盗まれた世代」に対して、2008年にケビン・ラッド首相が謝罪しオーストラリア全土に配信されました。その謝罪を聴いた多くの人たちが涙して、痛みを受けた人たちに対する癒しへの取り組みが始まったんですよね。  これ、ニュージーランドもやったんです。当時「ワイタンギ条約」がマオリとイギリス政府の間で締結され、イギリス人たちがニュージーランドの土地を殖民地にしてきた時代があって、そのことに対して謝罪があった。たった一つの謝罪から始まったんです。マオリもアボリジニも別に自分たちがお金を儲けるためにやっているわけではなく、安心して自国の中で暮らし、そして自分たちの歴史もこの国の歴史なんだということを言える社会がやっと始まってきました。つい最近だと、カナダのトルドー首相も過去の先住民政策について謝罪しています。それでもなお、謝罪されたことは忘れていくんです。もう若い子たちは「なんでアイヌに謝んなければいけないんだ」とか、若いアイヌたちも「なんで謝られたんだ」とか、そういう問題は必ずやってきます。もちろん反発する意見もたくさんありますが、僕が大事だと思うのは、「謝罪」は歴史になるんですよ。良い意味で開き直ってほしいというのかな。元々土地はカムイの物だって考えている人に、土地を与えるということはどうだったんだろうか。旧土人保護法の旧土人とは何か、保護とは何か、そういうことを全部明かしていけばいいなと思います。そうするといろんな誤解がほどけると思うし、今のネットの社会のように、様々な主張や情報が横行しているようなごちゃつきを1回止めるためにも、例えば政府によって先住民政策は間違いだったってことが、一つの歴史として残れば、僕は全然違うことが始まるような気がする。  現如上人の「錦絵」に残っていることもアイヌにとって屈辱的なことだということもあるけど、アイヌがこうやってひれ伏している絵を多くの人に見せることで、権威を作りたかったのも「錦絵」の意図ですよね。当時の政府や大谷派の中の状況も、天皇を新しい権威とした体制をとるために演出を必要としたことも含めて、そのような問題に対して大谷派の皆さんが真摯に取り組んで、そのことを発信しておられるので、この場では不安感を持たずに「謝罪」というような話ができているんだと思います。もちろん僕1人の意見で、全てが進められるわけじゃないですけど。 広報 鍵主:若い頃に差別問題の部会に入っていた時に、そのご縁でノッカマップのイチャルパに出させてもらったことがありました。それから何年か「部会の任期の間は」という意識でもって、私も行くもんですから。自分の問題意識というよりも、与えられた任として行っているうちに、どういう立場で関係性を結んでいこうとしているのか。だんだん深まっていくというよりも、逆にどういうふうにお付き合いをしていったらいいんだろうっていうことで、なんとなくしっくりこないものを感じてきてしまったということがありました。自分の立っている場所が、自己満足とでもいうんでしょうか「僕はそういうのに参加していますよ」というような立場になっていくと、自分の作り上げた世界に引きこもっていくようで、何か願いがどんどん見えなくなると言いますか。だけどそれを破ってくださるのは、いつでもご門徒さんだったり、仲間とか先生だったりで、そういうところでずっと揺り動いている気がします。 結城:そういうような感覚はすごくわかります。実は「ノッカマップイチャルパ」はうちの父親が始めたんですよ。父親があの場所を発見して、あそこでやり始めたのが最初なんです。  「クナシリメナシの戦い」というのが、この近代社会ができあがる少し前の出来事(1789年)で、アイヌが一番不遇の時代だったんです。人間の根源的に持っている暴力性が現れるような環境で、アイヌが働けなくなったら殺してしまうみたいなことが、日常化していました。  「クナシリメナシの戦い」は、日常の中で自分が殺されるかもしれない、自分の家族がいなくなるかもしれない、レイプされるかもしれないっていう恐怖の中で、若者たちの精神が爆発してしまったんです。それこそ今で言うテロ行為みたいになって、和人を71人も殺してしまった。でも北海道民はこの出来事をほとんど知らないですよね。すると、これは世界の歴史からいったら、この国における異民族との最後の戦いなんですよ。だけど、それは歴史の常識になってないんですよね。ですから、今おっしゃってくれたような自分の立ち位置に迷われるということはすごくよくわかるんです。それで、「ノッカマップイチャルパ」は僕も行ったけど、和人は皆「しゅん」とさせてしまう雰囲気を持つお祭りなんですよ。夜は、皆お酒も入ってくる。アイヌも、普段優しい人でも、過去に差別感や挫折感や劣等感を持っちゃうと、急にどこかに蓄積していたものが爆発するんです。特に行ってらっしゃった頃は、父親世代の人たちにはそんな感覚があったと思います。一般の人がそのような歴史を知らずにノッカマップに参加したのであれば、話すとすぐわかってしまうし、アイヌたちに違和感を持たれるかもしれない。僕も講演することがあるから、相手に届いていないと感じると心がどんどん離れていくこともあるので、状況はよくわかります。僕が言う「謝罪」というのは、そこの開き直りなんですよ。「この北海道がどうやって出来上がったのか、もうそろそろ受け止めてもいいんじゃないですか」というところがあるんですよね。たぶん北海道民はまだまだピンときていないんだと思います。でも、そういうご経験なさっている方がいるというのは、僕はちょっと嬉しいですね。 広報 小川:私はアイヌの方と接点がなかった方なんですが、20代後半の頃かな、ハワイアンの方とアイヌの方の交流の旅行に行ったんです。そこで石井ポンぺさんと阿部ユポさんにお会いして、初めてそこでアイヌの方々と接する機会があったんです。そのお二人のお話を聞くと、ものすごい熱があるんです。今まで本とか読んでも感じられなかったものが、初めて生の声を聞いたときに、そこでスッと入ってきた。その時の私には衝撃だったんですよね。具体的な言葉を覚えてはいないのですが、すごい熱を感じたということは今でも残っております。 結城:石井さんと阿部さんはすごい熱量があると思います。石井ポンペさんという方は本当に厳しい中を生きた人で、中学卒業して自衛隊になって、そこで高校に行って資格をとって公務員までなった方なんですけれども。アイヌであること自体で、全否定されていくような、大変な時代だったんです。そういう時代で生きた人たちからすると、僕の言っていることは生優しいんだよね。でも差別されたことをぶつけるだけでいいのか、何を解決するのか、というのは僕たちの世代の問いなんですよ。  「共なる世界を願って」から生み出された「出遇い直し」という言葉が好きで僕はどこでも使うんですが、「出遇い方が悪かったら出遇い直せばいい」とちょっと柔らかく表現するんですけど。先ほどからこだわっている「謝罪」ということは、差別がひどかった世代の人たちの、何か心の枷みたいなものを取ってあげて欲しいという気持ちが強いんです。僕に何かして欲しいなんてことは一切思わない。今まで生きてきた中で受けてきた差別が全部恨みつらみとしてストックされているものを癒し、アイヌであることを受け止めていけるために必要なものが「謝罪」なんです。 広報 飯尾:私はハワイの開教使の藤森さんと交流があるのですが、藤森さんがアメリカに土地を盗られたハワイの先住民に会ったことによって、「自分の地元のアイヌという存在のことを学んでいきたい」と言われて、ハワイの先住民を日本に連れてきてアイヌの方々と会っていただく企画に参加したことがありました。その時にハワイの先住民の方々とアイヌの方々がいろんな音楽で交流したり、酒を飲んだりして最後非常に盛り上がって抱き合ったり、泣いたりするんですけれども、そうなってくると私は添乗員みたいな感じになっちゃって、ポツンと私だけ仲間に入れないというか、「何をしにここにいるんだろう」って感覚になって非常にさみしい思いをしたんですね。それから1、2回受け入れに同行していったのですが、すればするほど入っていけない自分がいて…。そこで一旦打ち止めてそれから僕はそういう場にあう場面が無くなって、そのまま止まっている状態なんです。 結城:僕も藤森さんのところはカウアイにも行ったしオアフにも行ったんですけど。多分、藤森さんはあの島でもマイノリティーなんですよね。あそこの島の特徴は日系の人たちが第二次大戦の時にすごく差別を受けたりして、その日系人たちが逃げ込む場所が先住民の場所だった。もう1つは、ハワイの先住民はネイティブアメリカンと違って先住権が無いんです。どちらかというと状況は今のアイヌに近いんです。藤森さんを見ているとそこに寄り添っている気がしますね。自分もマイノリティーなんだと、多くの日本人、日系人が来たりしてそこに寄り添う。特にカウアイ島なんか行ったら本当にそんな場面があったりして。  ハワイの歴史も変えること出来るんですよね。例えば今、ハワイの先住民は星を頼りに航海をする伝統的な航海術を用いて「ホクレア号」という船で航海する運動が始まって、それが何回も航海をして行くうちに若い先住民にとって希望の星になったりしています。それと現地に残っている言葉、例えば「アロハ」でもいいし、「オハナ(家族)」っていう言葉もありますが、それがあの島の幸せな雰囲気を作っているんだと思います。あそこがアメリカの本土と全部同じ言葉にしていたとしたら、このハワイは残らないんじゃないかと。  なぜそんなこと言うのかというと、マウイ島でカヌーフェスというのがあって、うちのメンバーたちと一緒にカヌーを3週間作ったんです。そこでハイアットリージェンシーとかすごく有名どころが、マオリとか各先住民のスポンサーになってくれたんです。それで、そのスポンサーに聞いたんです。「なんでこの取り組みに資金を提供してくださるのか」と聞いたら、「最初の人たちがこの土地に名前を残してくれたおかげで、私たちは他のどことも違うリゾートとして完成して、マウイのハイアットリージェンシーだからと言って来てくれる。そこには感謝しなくちゃいけないし、また先住民の人たちも、ここの土地があるからこの人たちが生きていけるということにお祈りをしてくれる。そのことを大事にしているんだ」という価値観があったりします。  ある意味でハワイの取り組みはいろんな刺激を受けることがありますが、北海道でも地元の人たちにそのような歴史がもっと浸透してもいいと思うんです。「僕アイヌのこと知らないですよ」ってよく北海道民の人は言うけど、ちゃんとその土地に残っているものがあるはずです。もしこれから「共なる世界を願って」の取り組みが、大きな流れを作るとするならば、アイヌと和人の歴史や痛みというものをここで生きていく人々が受け止めて、北海道を考える上で次に繋げるものとなっていくことが、一緒にやれることの一つなのかもしれないですね。

ポスター・チラシデザイン画インタビュー

 2022年12月3日・4日に開催される教区お待ち受け大会の広報にあたり、慶讃法要委員会広報部会はポスター・チラシに使用する絵画を道内各大谷学園に募集した。厳選なる審査の結果、このほど札幌大谷高校美術科1年生(中高一貫のため厳密には4年生)の竹内優希さんの作品が最優秀作品として選ばれ、12月1日(水)に札幌大谷高校において授賞式が行われた。
 作品名は「花笑い」。色とりどりの花々に囲まれた少女が、何色にも染まらない中で一点を見つめている表情が印象的な作品。「花をいっぱい描きたかった。周りをカラフルにして花に眼が行った後で、女の子に焦点を当ててくれたら目が合う感じでいいかなと思って」と竹内さん。一つとして同じ色がない花たちと中央モノトーンの少女との対比が、「共なる世界を願って」という教区慶讃テーマを想起させる。
絵が好きなお母さんの横で一緒に描くようになったのが美術を志したきっかけ。色づかいはすべてお母さんから学んだ。昨年、今年と2年連続で有島武郎青少年公募絵画展の北海道新聞社賞を受賞するなど、美術科でも期待を集める注目株だ。
慶讃法要お待ち受けポスターは2022年1月の『北海真宗』に訂正に同封しています。

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団参事前学習ビデオ

帰敬式事前学習ビデオ(仮)
(準備中)
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